2025年11月19日水曜日

【つぶやき9】追出し裁判、最高裁に上告受理申立ての3通目の補充書を提出:規範が事前の規範と事後の規範の2方面に作用するのに着目し、住まいの権利裁判の先日の成果を追出し裁判に活用(25.11.19)

                               追出し裁判、最高裁に補充書(2)を提出(11月17日)

1、概要
 住まいの権利裁判の前々回の9月1日から前回の11月12日までの2ヶ月余りの間、仮設住宅提供の打ち切りを決めた内掘県知事決定の裁量権の逸脱濫用の適否をめぐって、(1)、考慮事項とは何か、(2)、考慮事項を関する事実の立証責任はどちらにあるのか、(3)、考慮事項を関する事実の立証のために前記決定を下した本人たる県知事の証人尋問の採否などについて攻防戦が続いた(以下、原告から提出した書面の一覧)。
その中で明らかになった「考慮事項とは何か」という裁量権の逸脱濫用の適否のために「判断枠組み」についての成果を、先行して福島地裁で始まった追出し裁判の上告受理申立て理由書の補充書として作成し、最高裁に提出しようと、今週17日の朝、提出した(上記の写真と下記の補充書(2))。以下、その簡単な解説。

原告準備書面(23) なぜ内掘知事の証人尋問が必要なのか(25.10.15)

上申書  10月20日の進行協議で発言の補足(25.10.22)

原告準備書面(24)本文+別表1+別表2 準備書面(23)の続き(25.10.27)

原告準備書面(25) 立証責任の分配が立証活動に与える影響について(25.11.3)

原告準備書面(26) 被告第13準備書面について(25.11.10)

上申書 争点整理案の追記(25.11.10) 


2、行為規範と評価規範
 何事もそうだが、思考にも事前の事前と事後の思考があり、或る出来事が起きて済んでしまってからあとになって振り返る事後の思考(ヘーゲルの思考がその典型)と、これに対し、これから起きる出来事に対して、それをどのように捉えるかという事前の思考とがあり、両者を区別する必要がある。 

同様に、法規範にも事前の法規範と事後の法規範がある。或る出来事が起きてしまってからあとになって振り返って当てはめるのが事後の法規範であり、立証責任の定めが証拠調べで立証命題が真偽不明になった場合にあとでこの事態をどう評価するかという事後に働く規範であること、控訴理由書や上告理由書が、既に出された原判決が法律に照らしてどのように評価されるかを問うのがその典型。これに対し、判決が出る前に、見込みや予測なども折り込んで或る行為に法律を当てはめるのが事前の法規範であり、判決前の審理の段階で、主張や立証の要の段階(求釈明や証人申請など)で、それらの行為が法律に照らしどのように評価されるかを問うのがその典型。事後の法規範を評価規範と呼び、事前の法規範を行為規範と呼ぶことがある。


3、本件に「行為規範と評価規範」を応用

この「行為規範と評価規範」を本件に応用したのが、今週17日に最高裁に提出した補充書(2)だった。それは、この2ヶ月間、住まいの権利裁判で、打ち切りを決定した内掘県知事決定の適否を判断するためには内掘県知事決定における考慮事項とは何かについて吟味検討した上で、それらの考慮事項を内掘知事が十分に考慮したか否かについて事実認定した上で、内掘知事が決定に際して誤りをおかしたかどうかを判断する必要があるということを詳細に整理して主張した(上記の準備書面(23)~(26))、その再構成版だった。

なぜなら、上記の法律的主張は、現在、住まいの権利裁判で内掘県知事決定の適否を審理している場合の行為規範として意味を持つだけではなく、既に下級審の判決が下って現在最高裁に係属中の追出し裁判においても、内掘県知事決定を適法と判断した原判決が果して正しいのかどうかを判断する上での評価規範としても意味を持つ。すなわち、行為規範として内掘県知事決定の適否の判断基準として主張した住まいの権利裁判における法律上の主張が、今度は、評価規範として内掘県知事決定を適法と判断した下級審判決を裁く判断基準としても機能することに着目したものだった。
 その際、法律審とされる最高裁に注文をつけておきたいことがあった。それが次の「事実問題と法律問題の交錯(相互作用)」という問題だった。

4、最高裁は、現実に起きている生の事実に注視し、これを踏まえて初めて法律問題の正しい解決(法の適用)も可能となることに深く思いを致すべきである
 
最高裁は法律問題を審理するが事実問題は審理しないとされている。けれど、この命題は実は法律問題と事実問題を仕訳すればよいというほど単純な問題ではない。そもそも法律問題の正しい解決は事実問題の正しい解決を前提にしない限り、つまり事実の正しい認識を基礎におかない限りあり得ないからだ。その限りで、最高裁も法律問題を正しく解くために、否応なしに事実問題と関わらざるを得ない。
 この点が問われたのが本件の裁量権の逸脱濫用の有無だ。行政庁の裁量権の逸脱濫用の適否という法律問題を判断するためには、考慮事項について行政庁はどのような考慮をしたのかという事実問題についても検討せざるを得ないからだ。例えば、行政庁が考慮事項については正しく取り上げたとしても、次にそれらの考慮事項に対する考慮の点において、ろくな調査収集しかせずに、いい加減な調査結果の事実に基づいてお茶を濁すような考慮をした(つまり考慮した振りをしただけ)としたら、そのような考慮はいわゆる事実を法に適用する場面において誤りをおかしたものつまり法の適用の誤りと評価されざるを得ない。この法の適用の誤りがあったかどうかはれっきとした法律問題であり、この法律問題を吟味検討するためにはどうしても原審で認定した事実と法(ここでは考慮事項)とを突き合せなくてはならない。その限りで、最高裁も事実と向き合わざるを得ないのだ。
 従って、本件で、内掘県知事が打切りの決定を下すにあたって、原告が主張した(少なくとも)次の8個の考慮事項について、最高裁がもしこれらが本来考慮すべき考慮事項であると判断した場合には、考慮事項の考慮において誤りがあったかどうかを判定する(いわゆる法の適用の判断)ためには、これらの考慮事項を基礎づける事実に基づいて県知事がどのように考慮したのか、その考慮の過程についての事実について認定せざるを得ない。その事実認定を経て初めて、その事実と考慮事項とを突きあわせて、内掘県知事の決定の判断過程に誤りがなかったどうかを判断できるからだ。
ところが、追出し裁判の一審において、被告とされた我々は、2022年3月18日付準備書面(被告第9)(>全文PDF)において、打切りを決めた内掘知事決定がその判断過程において、かずかずの考慮事項の誤りをおかしていることを詳細に主張した。
 しかし、被告が、打切りの決定にあたって、県知事は「応急仮設住宅の供与の打切りという県知事決定が区域外避難者に及ぼす現実の影響」や「福島県と区域外避難者の間の現実の関係」という生きた現実に即して決定の内容を吟味検討すべきであるという観点から少なくとも次の8個の考慮事項の考慮が必要であると主張したのに対し、一審も二審も裁判所は、審理の中で、これらの考慮事項についても、さらにこれらの考慮事項を基礎づける事実についても一切取り上げず、それゆえ何も検討もしないまま、判決の中で内掘県知事の決定に違法となるような誤りがなかったと判示した。このような原判決が裁量権の逸脱濫用の有無を判断する判断枠組みについて、いかに考慮事項と考慮事項を基礎づける事実に関する法解釈と法の適用を誤まったものか、その結果、審理不尽のいかにいい加減な審理しかしなかったものか、その結果、判決理由としてもいかに不十分、不備なものとしてしか判示されなかったか、が歴然としている。

①.区域外避難者の避難先での生活再建の現状と今後の見通しについて、当事者の区域外避難者からヒアリングした情報            

②.もし仮設住宅の提供打切りを決定した場合、それが区域外避難者の生活再建にどのような悪影響を及ぼすのかについて、当事者の区域外避難者からヒアリングした情報

③.仮設住宅の提供打切りを決定する場合、代替住居の提供についてのどのような検討(当事者の区域外避難者からヒアリングも含めて)をおこなったのか

④.そもそも国家公務員宿舎から区域外避難者を退去させる必要があったのか

⑤.どのような目的のために区域外避難者の退去が必要とされたのか

⑥.退去の必要性が認められるとしても、その必要性と区域外避難者が国家公務員宿舎に居住し続ける必要性との比較衡量が不可欠であるので、この比較衡量のための調整手段・方法(例えば、県外に復興公営住宅を建設する)について、どのような調査・検討(当事者の区域外避難者からヒアリングも含めて)を行なったのか

⑦.被ばくによる健康影響について、例えばセシウム 含有不溶性放射性微粒子による健康被害のリスクについて、専門家集団に諮問しどのような調査・検討を行なったのか

⑧.「国内避難民の指導原則」などの国際人権法による避難者の人権保障のあり方について、専門家集団に諮問しどのような調査・検討を行なったのか


5、まとめ
(1)、裁量判断の適否を判断するための法律上の主張のうち、法の適用(ここでは考慮事項の適用)とは考慮事項の基礎となる事実と考慮事項(法規範)とが相まみえる「法律問題と事実問題が交差する交差点」である。そこで、この法の適用を正しく実行するためには、考慮事項の基礎となる事実の正しい認定を踏まえて、考慮事項に関する正しい評価をすることが不可欠となる。本件では、原審で認定した事実を踏まえて、原審裁判所がどのように法(考慮事項)を適用したのか、その適用において誤りをおかしていないかどうかを吟味すること、それが最高裁の本件の審理で最も重要な局面となる。

(2)、この局面の検討をするにあたっては、まだ一審の審理の最中である住まいの権利裁判で明らかになった法律上の主張を、既に原判決まで出揃った追出し裁判の最高裁の審理に応用することが可能である。それは、ひとつの法規範が2つの場面で作用することに着目することによって可能であり、この間の住まいの権利裁判で整理集大成した裁量判断の適否を判断するための法律上の主張を、最高裁に係属中の追出し裁判の原判決を破棄する理由として追加補充する主張として活用した。全文のPDF


2025年11月18日火曜日

【つぶやき8】11.12住まいの権利裁判第16回弁論期日(続き):問題を正しく提出することが問題を正しく解くより困難かつ重要なときがある。それがこの日の裁判(25.11.19)

以下は、昨日書いた【つぶやき7】11.12住まいの権利裁判第16回弁論期日、その続き。

この日、裁判所は、
1、我々が強く求めてきた内掘知事の証人申請を不採用、却下した。敗北への後退。
2、と同時に、行政庁の裁量判断の適否について、「判断の枠組み」次第で決着を付くことを示した。勝利への前進。

その答えが意味することは「一歩後退、二歩前進」。
その心は「 問題を正しく提出すること自体が問題を正しく解くに殆どひとしいときがある。それがこの日の裁判だった」。

以下、この日の迷路・迷宮の裁判について、昨日の報告に続いて、もう一度、パズル解きの報告に挑戦。

1、民事裁判の基本原則は自己決定(弁論主義) 
民事裁判は、近代社会の基本原則「私的自治の原則」を反映して、誰がいかなる紛争をいかなるやり方で解決するかを当事者の意思(自己決定)に委ねる原則に取っている。その意味で、民事裁判の基本は、イエスの次の言葉と同じ。
求めよ、さらば与えられん

つまり、紛争を解決したかったら、解決したいと思った者が裁判の場で自ら進んで解決のビジョンを示して主張・立証を尽せ。そしたら、両当事者がそれを尽したあとに、第三者の裁判所がそれに対し判断を下して、求めたものに対して答えが与えられる。

2、本件の「求めよ、さらば与えられん
(1)、では、本件で当事者(原告)は何を求めるのか。それは、
第1に主張のレベルで、
内掘県知事が打切りの決定を下すにあたって考慮すべき考慮事項が何であるかを明らかにし、それらの考慮事項について知事は必要十分な考慮を払わなかった。つまり、知事は打切り決定の判断の過程において、考慮すべき考慮事項について4つの誤り()をおかした。よって、打ち切り決定は違法を免れない。

()それは次の4つの誤りのこと。
①.本来考慮に容れるべき要考慮事項を考慮したか。
②.本来考慮に容れるべきでない考慮禁止事項を考慮に容れなかったか(他事考慮)。
③.要考慮事項について当然尽すべき考慮を尽したか(過小評価)を
④.本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価しなかったか(過大評価)

第2に立証レベルで、
(1)、立証すべき命題(対象)
上記の通り、主張のレベルで明らかにした考慮事項に関する具体的な事実(原告がこの間主張した10個の具体的な事実)を証明して、これらの考慮事項について知事は必要十分な考慮を払わなかったことを証明すること。
これが原告が立証すべき命題。
(2)、立証命題の立証の方法
他方で、被告福島県と内掘知事が立証命題である前記の具体的な事実を独占し本裁判に開示しない以上、原告がこの立証命題を証明するためには、もはや決定を下した本人である内掘知事自身に直接問いただして証言を得るしか他に方法がない。

以上が原告が求めたこと。

(2)、これに対し、12日の裁判で裁判所は何を与えたか。
裁判所は、内掘知事の証人申請は不採用という応答を与えた。

(3)、迷路・迷宮の謎解きのスタート
ここから迷路・迷宮の謎解きが始まった。それが「内掘知事の証人申請はなぜ不採用となったのか」という原告からの問いかけだった。

なぜなら、本裁判で、県知事の打ち切り決定が違法か否かを判断するためには、
県知事が打ち切り決定を下すにあたって考慮すべき考慮事項に必要十分な考慮を払わなかったかどうか、で決まる。
そのためには、県知事がこれらの考慮事項に必要十分な考慮を払ったかどうかという真相を解明する必要があり、その真相解明のためには県知事の証人尋問は不可欠であったはず。のみならず、立証責任の点からいっても、この真相解明について立証責任を負う原告にとって、県知事の証人尋問は原告の立証を尽すためになくてはならない立証活動である。

そうだとすると、内掘知事の証人申請を不採用とした裁判所は、原告がこのように立証活動を尽そうとするのをなにゆえに妨げるようとするのか。それとも、裁判所は、この真相解明について立証責任を負うのは被告であって、原告は負わないから、その意味で、原告から県知事の証人尋問を申請する必要もないとでも考えているのか。
どうなんだ?と。

(4)、謎のリアクション
その問いに対し、裁判所は、こちらが想定していなかった次の回答を告げた。

①.仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法かどうかは、何が考慮事項であるかについて明らかにし、それらについて必要な考慮がされたかどうかを検討して判断することになる(←ここは原告の主張の通り
②.ところで、本件における「考慮事項」は何かについては、原告被告間で真っ向から主張が対立する。原告の主張する10個の考慮事項と被告の主張する3個の考慮事項は全く噛み合わない(←ここも原告も認識していた通り)。
③.しかし、原告の主張する10個の考慮事項について、「知事は決定の判断過程においてこれらの10個の考慮事項を考慮していなかった」という事実の点に関しては被告も争いがない(←言われてみれば、確かにその通り)。
④.つまり、原告が知事の証人尋問により証明しようと考える「知事は決定の判断過程においてこれらの10個の考慮事項を考慮していなかった」という事実は当事者間で争いのない事実であるから証拠調べは必要ない(←よもやそこまで気がつかなかった‥‥)。
⑤.従って、知事の証人尋問は採用しない(採用する必要がない)(←④からは論理必然的な帰結だ)。

(5)、裁判の決着の付け方
つまり、「考慮事項」論のうちの事実問題(原告が主張する10個の考慮事実に関する内掘知事の対応)については被告も争わないことを表明した結果、残された問題は「考慮事項」とは何か、という判断枠組みの法律問題(要件事実の確定)に絞られた。
         ↑
このような応答・展開は全く想定外だった。
裁判所の態度はてっきり、内掘知事を採用しないのは「知事、多忙につき」を理由にする「裁量判断の逸脱濫用への消極的姿勢」に由来するものだとばかり思っていた。先行する追い出し裁判でも露骨にそうだったから。しかし、この日の裁判所はこれとは全くちがった。内掘知事を採用しないのは「原告が立証しようとする考慮事項に関する事実(10個の考量事項を知事は適切に考慮していなかった)に原被告間に争いがなく証拠調べは不要だから」つまり「知事、不要につき」を理由とするものだった。

してみると、本裁判で残された問題つまり「真の争点」とは「何が考慮事項か」という、裁量判断の適否を決める「判断枠組み」とは何かだった。
これまで、福島関連訴訟で、審理の中で裁判の「真の争点」が明らかにされ、この「真の争点」に沿って主張・立証を尽したことは一度もなかった。「真の争点」を明らかにして勝負に出れるのはこれが初めてだった。しかも、その勝負が考慮事項という「判断枠組み」であることも初めてだった。
2014年の提訴から7年後に判決が言い渡された子ども脱被ばく裁判でも、判決を書いた福島地裁の裁判官は、判決まで、行政裁量判断の逸脱濫用の適否が争点であることを審理の中で一度も明らかにせず、ましてやこの住まいの権利裁判のように、行政裁量論の中で、真の争点が「考慮事項とは何か」であることなぞ審理の中で全く、一言も触れられず、判決の中で行政裁量論が突如、登場したのである。
これまでの不意打ち裁判、闇討ち判決に比べれば、住まいの権利裁判は真の争点のあぶり出しをやったという意味で、格段にまともな裁判である。

(6)、終わりに
本裁判の決着が何より決まるのか、という「真の争点」が明らかにされた先週12日の裁判はこれまでに経験したことのない裁判だった。「真の争点」を明らかにして、これに沿って「適正・迅速な裁判」を実現するというのはこれまでもさんざん要件事実を強調してきた司法研修所のお題目だったが、先週12日の裁判はそれを実地で見せた、お手本になるような濃密で凝縮した裁判だったのではないかと思う。
それは次の訓えを授けてくれたーー問題を正しく提出することが、問題を正しく解く以上に重要で決定的な場合がある。そのような場合、問題を正しく提出すること(すなわち「真の争点」を提示すること)で往々にして殆ど勝負がつく。
我々はついつい、自分の求める結論の正しさばかりに目を奪われて、その正しさの論証・証明に無我夢中になりがちだが、その論法は必ずしも人々の心に届かない。問題を解く前に、問題を正しく提出することに心を砕け。それがソクラテスがやった問答の全て。ゆめゆめ、問題を正しく提出することを怠ることなかれ。

この日経験し、掴んだ《「真の争点(真の判断枠組み)」に沿った裁判を徹底する、その決定的な重要性》、これを生涯の宝物として、これから取り組む全ての裁判の羅針盤として活かしていきたい。

【つぶやき7】11.12住まいの権利裁判第16回弁論期日:「一寸先は闇」と「一歩後退、二歩前進」の中で見えてきた勝利の方程式(25.11.18)

これは今まで経験したことのないような、少々長い、パズル解きのような裁判報告。

裁判報告の3つの動画>末尾へ

1、住まいの権利裁判第16回弁論期日までの経過
先週11月12日の住まいの権利裁判。この日、内掘福島県知事の証人申請の採否が明らかにされる。つまり、この日でこの裁判の行方がほぼ決まる(なぜなら、内掘知事が採用されたからといって勝訴が保障されるわけではないが、不採用となれば、過去の追出し裁判の経験からも敗訴はほぼ確実となる)。

そのため、内掘証人尋問の必要性・必然性を実証的、論理的に明らかにするための書面をこの間、以下の通り準備、提出した。

原告準備書面(23) なぜ内掘知事の証人尋問が必要なのか(25.10.15)(

上申書  10月20日の進行協議で発言の補足(25.10.22)

原告準備書面(24)本文+別表1+別表2 準備書面(23)の続き(25.10.27)

原告準備書面(25) 立証責任の分配が立証活動に与える影響について(25.11.3)

原告準備書面(26) 被告第13準備書面について(25.11.10)

上申書 争点整理案の追記(25.11.10) 


)準備書面(23)の概要は以下。
1、前提問題
(1)、略
(2)、いかなる場合に行政庁の裁量判断は違法とされるか。
 都知事が行った都市計画の変更決定に対し、最高裁は次の通り判示した。
その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により重要な事実の基礎を欠くこととなる場合,又は,事実に対する評価が明らかに合理性を欠くこと,判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限り,裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法となるとすべきものと解するのが相当である。》(最判平成18年11月2日小田急線高架化事業認可取消訴訟。下線は原告代理人)。
 その結果、行政庁は重要な事実の基礎を欠くことのないように、なおかつ当該事実に対する評価が明らかに合理性を欠くことのないように、案件の裁量判断にあたっては、いかに判断すべきかを検討するために必要となる当該案件の構成要素たるあれこれの事実を十分に調査・収集しておくことが判断の大前提となる。
 そこで、裁判所が行政庁の裁量判断を審査するにあたっても、行政庁が調査・収集すべき上記事実を適切に把握しておくことが不可欠となる。

(3)、行政庁の裁量判断についてどのような司法審査が行なわれるべきか。
 行政庁の判断過程において、重視すべきでない考慮要素を重視し(過大評価)、当然考慮すべき事項を十分考慮しない(過小評価)などの合理性を欠くことを問題にして司法審査した最高裁平成18年2月7日学校施設使用許可国賠事件判決以降、「判断過程審査」方式が積み重ねられ 、近時はこの「判断過程審査」方式が通例となり、定着している(原告準備書面(19)16~17頁。藤田宙靖元最高裁裁判官「自由裁量論の諸相―裁量処分の司法審査をめぐって―」73~74頁〔甲B37号証〕)。

(4)、「判断過程審査」方式においてはどのように審査が行なわれるのか。
裁量判断の方法ないしその過程に誤りがあるかどうかを審査する。具体的には以下の諸点について吟味検討を行なう。
①.本来考慮に容れるべき要考慮事項を考慮したか。
②.本来考慮に容れるべきでない考慮禁止事項を考慮に容れなかったか(他事考慮)。
③.要考慮事項について当然尽すべき考慮を尽したか(過小評価)を
④.本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価しなかったか(過大評価)
 以上を前提にして、以下の問題について検討する。

2、問題の所在
本裁判において、内掘知事の証人喚問がなぜ必要か。

3、結論
そもそも行政庁の裁量判断の違法性の有無を司法審査する上で、要考慮事項・考慮禁止事項の内容及びその重み付けを検討・判断するためには、行政庁が裁量判断にあたって、事前に十分に調査・収集しておくべき、判断の基礎となる事実・情報(以下、当該情報という)を把握することが不可欠である。本件においても、県知事決定の基礎となるべき当該情報を収集することが不可欠である。そこで、この情報収集のためには、県知事決定を下した本人から直接及び反対尋問にさらされる証人手続の中で入手するのがベストである。

4、理由

そもそも福島原発事故クラスの原発事故(放射能災害)は災害救助法で予定しているような従来型の災害・事故の枠組みに収まらない、想定外の大災害(カタストロフィー)であり、こうした大災害(カタストロフィー)に見舞われた被災者(そこには当然、区域外避難者も含まれる)に対して、国・自治体には、被災者が原発事故から回復(命、健康の回復、生活再建)することに対する「十分な配慮」 が求められることは言うまでもない。
従って、県知事による区域外避難者への住宅の無償提供の打切りの決定にあたっても、その決定の判断過程において、要考慮事項の1つとして上記の「十分な配慮」をする必要がある。そこで、この「十分な配慮」を適切に実行するためには、無償提供の打切りの決定当時の区域外避難者の置かれた現況などについての必要十分な事実・情報に基づく必要がある。
そこで、問題はその際に、どのような事実・情報を収集することが求められるかである。そのためには、いま一度、行政法を論理的な概念法学(=死んだ行政法)ではなく、「生きた行政法」の中で再構成するという以下の基本的な観点に立ちかえる必要がある。
「これまで、行政法学者たちは、一定の行政行為を概念を用いて分類して、法規裁量に該当するか、自由裁量に該当するかを導き、それによって、当該行政行為に対する司法審査の可否(違法の判断の可否)を判断してきた。」
「しかし、そこには当該行政行為をめぐって国民に及ぼす影響、或いは行政庁と国民の間の現実の関係というものが完全に欠落している」
「しかし、たとえ概念的には同一の行政行為に属するものであっても、上記の「国民に及ぼす影響」や「行政庁と国民の間の現実の関係」という当該行政行為が果たす機能が違えば、結局、その法的判断も異なりうるのである。」
「従って、重要なことは、機能的に捉えられた行政行為について、その機能作用に着目する中で、当該行政行為に対する司法審査の可否を判断すべきであって、概念的な操作でもって判断するのはおかしい」(以上、渡辺洋三「法治主義と行政権」〔1959年〕)
そこで、いやしくも区域外避難者の原発事故からの回復(命、健康の回復、生活再建)に対する「十分な配慮」を具体化しようとするならば、「仮設住宅の提供打切りの県知事決定が区域外避難者に及ぼす影響」や「福島県と区域外避難者の間の現実の関係」という生きた現実に即してこれを行なうほかなく、もし、このような「生きた現実」に即した検討をしない限り、行政行為である県知事決定は法律的に「空虚」なものにならざるを得ず 、そこで、県知事は具体的に以下の8個(その後2個追加で計10個)の情報を収集することが不可欠であった(以下、本件当該情報という)。
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2、住まいの権利裁判
16回弁論期日までの準備の中で導かれたこと
 その結果、実証的、論理的に「原告が考える考慮事項について、《知事が考慮を尽していない》ことの立証責任を負う原告がその立証責任を果たすためには、仮設住宅提供を打切った県知事決定を下した内掘知事本人から証言を引き出す以外に立証方法がないこと(なぜなら、被告福島県は原告が考える考慮事項について一切情報を提供しないから)」が示されたのであれば、もし裁判所が内掘知事の証人申請を不採用とするのは「考慮事項について立証責任を負う原告の立証活動を尽させるという裁判所の訴訟指揮に自ら反することになる」。裁判所に、そのような原告の立証活動の妨害をおこなう理由は何なのか?ーーこういう問いを投げる積りで準備した。

3、住まいの権利裁判16回弁論期日の当日
果して、裁判所は、内掘知事の証人申請を不採用とした。 そこで、上記の問いを投げた。
それは、先行する福島地裁に提訴された追出し裁判でも、3年前、福島地裁の裁判官も同様に、内掘知事の証人申請を不採用としたが、その真意は「もともと仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法だいう避難者たちの主張は取るに足りない無理な主張。だから、そんな無理な主張の立証のために多忙な県知事をわざわざ尋問するまでもない」にあったが、今回の東京地裁の不採用の真意もそこにあるのかどうか、それを確認することがこの問いの目的だった。

もし、東京地裁の裁判官が「県知事は公務で多忙だから」といった趣旨の応答したときには、その応答振りから、その真意は3年前の福島地裁の裁判官と同様であることが透けて見えて、判決の見通しも敗訴が判明した。

ところが、東京地裁の裁判官は我々が予想もしていなかった奇妙な応答をするに至った。それは次のような内容だった。
①.仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法かどうかは、何が考慮事項であるかについて明らかにし、それらについて考慮がされたかどうかを検討して判断することになるところ、
②.原告が主張する10個の「考慮事項」と被告が主張する3個の「考慮事項」はその内容が真っ向から対立して、噛み合わない。
③.ところで、原告は、原告の主張する10個の考慮事項について、県知事は考慮をしていないということを主張する積りである。
④.これに対し、被告も、原告が主張する10個の考慮事項について、本法廷でも確認した通り、これらについて県知事は県知事決定の判断過程において考慮していないことを認めている。
⑤.すなわち、原告の主張する「10個の考慮事項について、県知事は県知事決定の判断過程において考慮していない」事実は被告においても争いがない。
⑥.従って、上記⑤の事実に双方で争いがない以上、これについては証拠調べする必要がない。
⑦.従って、上記⑤の事実の存否について内掘知事を証人として証拠調べする必要もない。
⑧.これが、内掘知事の証人申請の不採用の理由である。

4、住まいの権利裁判16回弁論期日の意味すること
この裁判所の言い分は論理的には正しい。
すると、仮設住宅提供を打切った県知事決定が違法かどうかの勝負は、何が考慮事項であるか、具体的には原告の主張する10個の考慮事項か、それとも被告の主張する3個の考慮事項か、という考慮事項の範囲をめぐる法律判断(法解釈)で決まることとなった。
これは、3年前、内掘知事の証人申請を却下し、そのあと、何の理由も示さず、県知事決定に裁量権の逸脱濫用はないと三行半の判決を下した追出し裁判の福島地裁一審判決とは全くちがう展開となった。

この想定外の展開に、もし内掘知事の証人申請の不採用ならば、3年前の追出し裁判の暗黒判決の再来を覚悟するほかなかったのに、裁判所との対話を通じて、そこから、予想もしていなかった新たな形で勝訴の可能性があることが見えてきて、そのために勝利の方程式の準備に励む余地を与えてくれた。
この意味で、この日の裁判は「一寸先は闇(そして光)」であり、「一歩後退、二歩前進」の瞬間だった。 

以下の動画(UPLANさん提供)は、裁判後の報告集会で、この日の裁判所との対話のやりとりの意味について解説した
弁護団の井戸さんの解説


同じく柳原の解説

裁判前の支援者集会で、柳原の今日の裁判の見通しの話


2025年11月3日月曜日

【つぶやき6】真か偽の判断は事実認識の次元だけではない、もう1つ、論理の世界でも登場する(25.11.3)

 これまで、世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持つと、そう考えてきた(>リスク評価論)。そしてここで、①真(認識的)とは事実認識のことを意味していた。

しかし、最近ようやく、①の真に関しては、これは不正確ではないかと気づくようになった。 なぜなら、論理の世界でも真か偽かが問われることがあるが、論理の世界は上記の①事実認識の世界とは異なる、別個の世界の話だから。

つまり、真理か否かは事実の世界と論理の世界で問題となる。真理か否かについて、前者は科学による検証を経るが、後者は分析を通じて基本の規則に分解することによって明らかになる。以上のことはライプニッツが「モナドロジー」§23で明言している通りである。

 

 

2025年11月1日土曜日

【つぶやき5】トマス・アクィナスの謎:なぜキリスト教はのちにギリシャ哲学と結婚(融合)できたのか(25.11.2)

1、はじめにーーずっと分からなかった謎ーー
キリスト教が中世に至って、とくに13世紀にトマス・アクィナスによって、ギリシャ哲学とくにアリストテレスの哲学と融合したと言われる。むろんトマス・アクィナス個人ははなからアリストテレスの哲学に夢中だったから、これをキリスト教と合体させようとしたのは自然だとしても、問題はなぜ彼のそのような行為が異端視されず(実際はされそうになった)、むしろキリスト教の正統とみなされるに至ったのか。これはトマス・アクィナス自身にとっても、大きな謎だったはずだーー自分がやった「宗教と哲学の結婚の試み」が異端とされず、火あぶりにも処せられなかったのはなぜか?

客観的にみたら、宗教が哲学と結婚するとき、当時の哲学は自然哲学・論理学だから、それは規範(善悪)と存在(真偽)の結婚だ。前者は価値判断に基づくもの、後者は価値判断を排した客観的な存在の問題。もともと次元のちがうもの同士が合体するというのは一体どういうことなのか。

なぜなら、どんなに事実(存在)を積み重ねたとしても、そこから論理必然的には規範(善悪)を導き出すことはできない。両者の間は論理的に分断されているから。

にもかかわらず、両者の間を論理的につなごうとしたトマス・アクィナスは一体どうやって、この無謀な試みに挑戦したのだろうか? 

これについて思ってきたことは、 規範(善悪)と存在(真偽)の分断は、暗闇の中の跳躍という無根拠の、半ばヤケクソの「実践」だったら可能、というよりそれしか可能性はないと考えてきた。

2、ひとつの手掛かり
しかし、今、それ以外にも、この分断に橋を掛けることは可能ではないかと気がついた。

それが上記の「 どんなに事実(存在)を積み重ねたとしても、そこから論理必然的には規範(善悪)を導き出すことはできない。両者の間は論理的に分断されている」。しかし、たとえそうだとしても、事実の積み重ねによって規範(善悪)に限りなく近づくことはなお可能なのだ。つまり、事実の積み重ねの極限形態、それが規範(善悪)だと(※1)。
だとすれば、我々は、規範からみて最も至当に思われる「事実」を丹念に積み重ねていくことしかできないのではないか、それがここで言う「実践」という意味だ
※2※3。 

※1)極限の登場
数学の解析の世界では、物事を「極限」として捉える。速度を捉えるのに、一定時間で進んだ一定距離について、「一定距離÷一定時間」の式で
一定速度が導かれるこの式に、一定時間をどんどんゼロに限りなく近づけていったその極限の末に、「無限小の距離÷無限小の時間=瞬間速度」を導くことがやられている。ここでは、単純な「事実」の中だけで計算が行われているのではなく、 むしろ、「事実」の無限の積み重ねの中で、その極限の果てに「無限小」なるものを想定(仮想)して、そこから法則(ここでは瞬間速度)に辿り着くことが実現している。これは、それまでの単純な「事実」の中だけで計算してきた者にとって驚異的なアイデアである。17世紀に発見された、この発想の転換を、今ここで、事実と規範の分断を克復するアイデアを想起することは十分意味がある。 

※2孟子の「惻隠の情」
これに似たことを言った人がいる。孟子。彼は「惻隠の情」というものが人には誰にも備わっているという。これは事実(存在)のことだ。この「惻隠の情」は仁(規範)そのものではないが、仁の「端(はじめ)=端緒」だという。そして、この端緒を拡充する努力を積み重ねていく中で、ついに仁に至ることが可能になるという。
これは惻隠の情と仁とは別ものだが、しかし、惻隠の情から出発してその積み重ねの努力の中から、いつか仁に至るという事実の規範(仁)と事実(惻隠の情)の関係について、こんな大昔に、このような繊細な考察をしていたことに、正直、ただ驚嘆するのみ。

※3)関係性についての考察
これは或る2つの
出来事を同一のものかそれとも別のものかと問うことと、もしその答えが「別のもの」だとしても、なお、2つの出来事の関係は全くの無関係かそれとも、特定の関係が認められるかという問いが残されており、もしその答えが「特定の関係が認められる」だとしたら、次にそれはどんな関係かを問うことが必要になる、この考察の重要性を実際に示してみせたものだ。

3、もうひとつの気づき
宗教と哲学の結婚は、少なくともトマス・アクィナスの場合、その宗教が普遍宗教の性格を帯びていたからだ。彼にとって、普遍性の追求とキリスト教への信仰は不可分一体になっていて、その結果、彼の中では普遍性の追求が存在(真偽)の分野にも振り向けられたのはごく自然のことだった。そして、そこでアリストテレスの哲学と出会った。
アクィナスの中では、普遍性がキリスト教と哲学を合体させる最大の動機付け(モチーフ)になっていた。その結果、キリスト教のとくにその基礎(インフラ)となる分野を哲学でもって普遍化するのは彼にとって極めて自然なことであった。

2025年10月30日木曜日

【法律学批判4】事実と規範をどうやってつなぐか:その問題は「法律は正義としていかなるときに力を持つか」に置き換えられる(25.10.30)

事実(存在)と規範(価値判断)をどうやってつなぐか?つまり、両者の架け橋をどこに見出すか?

この問題は、次のように置き換えられる。
法律は正義として、いかなるときに法律の力を持つか?
つまり、正義の力はどこにあるか?

1、この問題は、次の問題とつながっている。それは、
事実(真実)の力はどこにあるか?
それはひとつは、事実が真実であると人々に受け入れられたとき。
もうひとつは、事実が正義の構成要素となったとき(言い換えると、正義の中に埋め込まれたとき)。

そのビジョンは国際人権法の中に見出すことができる。国内避難民は人間であり、人間として扱われなくてはならない。では、果して、311以来、現実に、事実として、人間として扱われてきたか。人間として扱われてこなかったのではないか。そのような力を持った事実はまず「人権侵害」というネガティブな事実なのではないか。

2、他方で、正義の力は、通常の法的論理の中にはない。
通常の法的論理とは、所詮、正当化の論理だから‥‥
But! ひとつだけ例外がある。
それがソクラテスの問答。
彼は、法的論理の中で、法的論理自身の欺瞞・矛盾を暴いてみせた(証明した)。
つまり、そこから法的論理の前提・基礎の不確実性・欺瞞を明らかにした。
これもまた、ポジティブではないが、ネガティブな力(人を途方に暮れさせる)を人々にもたらした

【法律学批判○】太田勝造「社会科学の理論とモデル 7法律」への感想(25.10.30)

 これは、太田勝造「社会科学の理論とモデル 7法律」の「はじめに」を読んだ感想。
1、彼は、その2頁目ラストでこう書いている。

本書は、社会科学の理論とモデルの一部を法律の分野に適用しようとする試みである。

この1行を読んだ瞬間、彼は法律のことを間違って理解している、つまり、そもそも社会科学の理論とモデルを法律に適用しようという試み自体が間違っていると思った。
なぜなら、法律はもともと社会科学の対象ではなく、精々、法律の中の一分野である事実論のみが社会科学の対象となり得るにすぎず、法律の本領・本命である法律論は宗教学・倫理学・論理学の対象となり得ても、社会科学の対象ではないから。

私の上記の理由は社会科学における任務を、自然科学と同様、もっぱら「事実」の究明・解明にあると考え、「価値判断」の究明・解明を主要な任務とする政策、倫理、法律、宗教とは一線を画すると考えるから、つまり「事実判断と価値判断の峻別」という立場に立つからである。

ところが、太田は法律もまた社会科学の一分野だと考え、ゆえに、社会科学の理論とモデルを法律に適用するのは可能であると考え、それに挑戦した。しかし、それが挫折するのは必然であった。「価値判断」の究明・解明を主要な任務とする法律に、「事実」の究明・解明を任務とする社会科学の理論やモデルがうまく使えないのはことの性質上、当然だから。

2、しかし、法律と社会科学の次元の異なるちがいに気がつかないのか、太田は、己の挫折の理由を理解せず、むしろ挫折した矛先を法律の非科学的な性格に振り向け、こう言うーー法律学の議論は、カルトの教義と区別がつかないように思われるかもしれない。法律学における「理論」とは、仮説を構築し、検証・反証に曝すための理論ではなく、とりたてて根拠があるとは限らないようなドグマ(教義)の「体系」であり、これを信じて他者に対して使えるようになることが法律学を身につけることである。‥‥(はじめに3頁)

彼は法律の理論が科学の方法論である「仮説を構築し、検証・反証に曝す」こととは無縁の、唯我独尊的なドグマ(教義)であると批判するが、これは科学の方法論である「反証可能性」の理論こそ絶対の正しいものであるという立場からこの理論を採らない法律を断罪するものである。しかし、前述した通り、もっぱら「事実」の究明・解明を任務とする科学は、「価値判断」の究明・解明を主な任務とする法律学とはその性格が水と油ほどちがい、従って、両者の方法論もまた 水と油ほどかは別にして、ちがって来るのはむしろ必然である。もし法律の理論を批判するのであれば、まず、「価値判断」の究明・解明を主な任務とする法律学においても、その理論は科学と同様、「仮説を構築し、検証・反証に曝す」という方法論が適用されるべきであることを証明してから、そののちに上記の批判をすべきである。その証明もしないで、無条件に科学の方法論を取らないのはおかしいと批判するのはそのやり方こそ唯我独尊的でドグマティックだと言われても仕方ない。

3、かつて、大学院生時代に、証明論で画期的な論文を発表した彼は、その論文が法律の中の「事実」論の分野の一テーマだったせいもあり、爾後、彼の中では「事実」論がたえず大きな関心事だったにちがいない。しかし、前述した通り、法律学の本領・本命は「価値判断をエッセンスとする法律論」にある。そこでは、事実の証明といった、社会科学と同一レベルで議論が可能とは限らず、むしろ事実とは異次元の、規範(価値判断)の究明・解明という次元で独自の議論を展開する必要が大であった。その意味で、法律の世界とくに事実論の分野では、社会科学の理論・モデルをベース(基礎)に置きながら(※1)、そこから飛び立って、社会科学にはない、法律に独自の課題「規範(価値判断)の究明・解明」に向けて、新たな、独自の理論・モデルを構築するという困難な課題を抱えていることに目覚めるべきだった。そして、そのことを曲りなりに、やろうとしたのが【法律学批判1】から【法律学批判○】。

※1)ちょうど、芸術作品などの著作権の分野で、著作物の評価という事実論においては、作品の構造分析などの芸術論の理論・モデルをベース(基礎)に置きながら、法律問題を解くことが著作物の現実を踏まえたリアルな法的評価を可能ならしめるとされるのとパラレルな関係にある。

4、もうひとつ、太田がやるべきだったのに、今までとうとうやらなかった(のではないかと思われる)ことがある。それは、ソクラテスの弁明。つまり、
彼は他の研究者には見られない鋭い視点があったのだから、その鋭い視点で、ドグマ(教義)の中に思考停止して安住する既成の法律家たちに対して、ソクラテスのように背理法を使った対話を試み、惰眠を貪る彼らのドグマを粉砕・破綻するのを見届ける問答を徹底してーーソクラテスが自ら、馬にまとわりつく虻みたいにアテネの市民に対話を仕掛けたようにーーやり遂げるべきだった。そして、一度は法曹界を覆っているドグマを粉砕しておくべきだった。その批判によるドグマ破壊活動を経た後に、(事実論の分野とはいえ)社会科学の理論・モデルを法律に応用して、新たな建設を行うべきだった。

しかし、この批判破壊活動をしないまま、いくら熱心に、新たな建設活動に取り組んでみても、保守本流の中で惰性・惰眠を貪るような法学者たちにとっては彼の提案は痛くもかゆくもない(なぜなら、自分たちが逃げ込むドグマは破壊されないでちゃんと残っているから)。だから、彼らはそのドグマにぬけぬけと安住したまま、彼の提案を単にさっさとスルーするだけであった(と思う)。

2025年10月29日水曜日

【法律学批判3】「規範の類型事実化」はいかなる問題に置き換えることができるか。(25.10.30)

【法律学批判2】で次の通り書いたーー数学を解くとは、問題を別の問題に次々と置き換えることであり、その置き換えを通じてついに問題が解けるようになる。その方法は数学に限らない。ここでも応用可能である。そう信じて、この「類型化」の問題をさらに別の問題に置き換えるべく挑戦することにする。

以下、その試み。

我妻栄は、民法90条の「公序良俗違反」の判断を類型化に求め、その類型化への道を次のように説いた。

一面、従来の判例及びこれに対する学者・社会一般の批評を仔細に観察、
多面、活眼を開いて、当代の社会思想と社会制度とを観察し、
もって、具体的な標準を誤まらないように努めるべしと。
その際、判例によれば、価値判断の標準が「個人の自由からその社会的影響」に推移しようとするものが多いことに注意すべきと
(民法講義Ⅰ〔306〕)。

しかし、これだけでは類型化の手掛かりの一端は掴めても、どうやって規範を類型的な事実に置き換えたのか、その秘密を解くことはできない。つまり、「規範の類型事実化」を別の問題に置き換えたことにはならない。

しかし、ここにはひとつだけ、重要な手掛かりがある。それは、
従来の判例の探求の重要性を説いていることだ。
なぜ、判例の探求が重要なのか。
そこには、生きた紛争の現場で使われている生成中の規範が存在するからだ。判例は紛争から自動的に生成されたものではない。判例を可能にしているのは、そこに、悪という理不尽な法律関係に対し、NO!という声をあげて訴訟を起こした弱者自身によるアクションがあったからだ。提訴という彼らの抵抗権の行使が(もちろん全てではないが)、これらの判例として実を結んでいるからだ。
その意味で、判例の探求と言うのは、「悪の法律関係に対する人民の抵抗権の行使」、その記録の探求なのだ。

つまり、提訴という市民の抵抗権の行使から、規範はより具体的な形を取る。それはどこからか。悪という事実からだ。市民はこ難しい道徳の観念については知らないかもしれないが、自分が身をもって全身全霊で体験している悪の関係については、「おかしい!許せない!」という絶対の感性を持っている。
つまり、規範は善と悪というコインの両面のうち、悪の面から眺めたとき、その正体が明白となる。
これに対し、今日、善と悪の区別は曖昧になった、相対化したとかグチャグチャ言われる。しかし、悪は悪の被害を受けた人たちにとっては曖昧でも相対化でもない、歴然とした明白な事実だ(人の頭を上から靴で踏んだ者にとって、それが何を意味するか分からないとしても、踏まれた人にとってその意味は明々白々である)。つまり、悪は何よりもまず、悪の被害を受けた者にとってどのようなものであるかという観点から評価されるべきもので、その時、悪は殆どの場合、明白な正体を現すであろう。

その結果、抵抗とは、悪の事実に対し、NO!という抵抗の叫びと行動のことを言う。この時、抵抗は(悪という)事実から規範に揚棄(羽化)する、最初の一歩となる。

以上から、「規範の類型事実化」とは、規範を被害者からみた悪に着目して、その悪の類型化ということになる。我妻栄の公序良俗違反の類型化も(「民法講義Ⅰ〔306〕)、よく観察すると、被害者からみた悪に着目して、その悪の類型化を試みたものであることが分かる。

その際、重要なことの1つは、悪をどの点で捉えるかである。悪を行使する側も(悪智慧が働く者であればあるほど)やたらめったら悪行を働くのではなく、必要最小限の悪しか使わない。そのため、悪に抵抗する側も、この点をよくわきまえる必要がある。いったい、悪者はどこに悪の必殺技を仕掛けたのか、その所在を突き止める必要があり、その必殺技に対して、こちらもそこで勝負に出て、これをひっくり返す抵抗に出るべきである。それが善の事実を否定した悪、その悪をさらに否定した抵抗の具体的アクションであり、それは「否定の否定」という止揚の勝負どころである。

【法律学批判2】法的三段論法の事実(小前提)と規範(大前提)を繋ぐ客観的な「架け橋」の探求その1「規範の類型事実化」(25.10.29)

 【法律学批判1】で次のことを述べた。
1、「事実(小前提)」と「規範(大前提)」をつなぐ架け橋は論理的には不可能である。なぜなら、それは論理とは異なる、判断者の価値判断に基づいて架けられる橋だから。
2、その上で、この架け橋が判断者の主観、恣意を排除し客観的なものにするために何が可能か、何をなすべきか。この「価値判断(規範)の客観化」が問われている。

「価値判断(規範)の客観化」はどうやったら解けるのか。
今、思い当たるのは次の2つ。
1つは、「規範の事実化」より正確にいうと「規範の類型事実化」。
もう1つは、ソクラテスの問答、一種の背理法により、判断者が採用する価値判断が破綻、矛盾に陥ることを示して、その価値判断を破棄させること。
       ↑
尤も、この2つは別々のものではなく、セットとして考えることができる。つまり、後者は誤った価値判断を消去する解き方であり、前者は正しい価値判断を建設する解き方だから。具体的には、既に世に受け入れられている価値判断を批判し、その克復の必要性を証明するためにソクラテスの問答が使われ、それが成し遂げられたあとは、新たな価値判断を導入するための方法として、前者が使われる。
順番に述べる。

1、「規範の事実化」とは何か。それは、もともと規範とは事実と無関係に、独自に存在するものではなく、事実の中から誕生し、育まれるもの。つまり、事実から生成するもの。生成法(1)とはそのことを指す。だとしたら、規範を(規範が誕生するもととなった)事実の組み合わせとして構成することは十分可能だ。その1つが、法律的に「類型化」と呼ばれる解き方。例えば、民法90条の「公序良俗違反」。この抽象的な規範は、そのままでは使い物にならず、法律家はその類型化に努めている。言い換えると、「類型化」とはより具体的な事実によって抽象的な規範を再構成し、もって、事実と規範をつなぐ架け橋を架ける解き方のこと。

1)生成法とは、民衆の間で流通(交換)している事実がやがて法的確信にまで高められ、その法的確信がじわじわと拡大する中で、或る時点でそれが法規範(慣習法)として誕生するという見方。

ただし、こう言ったからと言って、 事実と規範をつなぐ架け橋があたかも自動的に生成できるわけではない。そこでは、どうやったら「類型化」が可能になるのか、今度はその解き方が問題となる。つまり、問題の解き方が別のものに置き換わったのだ。数学を解くとは、問題を別の問題に次々と置き換えることであり、その置き換えを通じてついに問題が解けるようになる。その方法は数学に限らない。ここでも応用可能である。そう信じて、この「類型化」の問題をさらに別の問題に置き換えるべく挑戦することにする。

そこで、次の問題は「規範の類型事実化」はいかなる問題に置き換えることができるか。
これについては別文で。

2、ソクラテスの問答
ここでは、ソクラテスの問答がなぜ必要か、なぜ重要かについて述べる。
それは、法律の判断者は、往々にして、とりわけ保守的な価値観に従う者たちは、我々がいくら「新しい事実」に相応しい「新しい法規範」を訴えても、そしてその訴えに正面からは何一つ反論しなくても(実際はできないのだが)、だからといって、我々の訴えを採用する訳ではなく、「価値判断の相対性」の名の下に旧来の法規範にしがみついて、これを固守するという抜き難い性癖があるからだ。だから、このような人たちに対しては、あらかじめ、ソクラテスの問答によって、彼らがすがる旧来の法規範の破綻、矛盾を余すところなく明らかにして、彼らが旧来の法規範に逃げ込もうとする退路を断っておく必要がある。

【法律学批判1】法律を法的三段論法により再構成しようと企てた瞬間、論理的に永遠に解けない躓きとヌエ(似非・擬似)論理が誕生した(25.10.28)

 秘密投票は民主主義の最高の制度の1つとして根付いている。しかし、このノーベル賞級のアイデアを誰が思い付いたのか、誰も知らない。

これと同様、法的三段論法(1)は近代の法律の根本原理の1つとして根付いている。しかし、いったい誰がこのアイデアを思い付いたのか、誰も知らない。

1)「大前提」に「小前提」を当てはめて「結論」を導き出す思考方法。

ただ、 このアイデアは法的三段論法の名の通り、アリストテレスが整備したとされる三段論法を法律に応用したもの。ゆえに、このアイデアを思いついた人はアリストテレスの論理学を使って、法律の構造を首尾一貫した論理構造に仕立てて、もって、権力者による法律の主観的、恣意的運用を排除すること(「人の統治」の否定)を目指したのだと思う。それならば、このアイデアを最初に実行した人が13世紀のトマス・アクィナス。彼はアリストテレスの三段論法をキリスト教に応用した最初の人物として知られる。「宗教の論理化」--その偉大な成功に見習って、だったらこのアイデアは法律にも使えると、ひそかに思った人が法的三段論法の最初のアイデアマンではないかに思う。

その真相はともかく、ここで重要なことは、一方で、「法律の論理化」により、法律はそれまでの権力者による主観的、恣意的運用を排除して、機械的とも言うべき正確・厳密な運用が担保されることになった。これはこれでひとつの立派な「正義」だ。

しかし、同時に他方で、「法律の論理化」により、法律はそれまで三段論法が予定していなかった新たな困難をしょい込むことになった。それが2つの前提のうち、一方の大前提には規範(ゾレン=Sollen)、他方の小前提には(個々具体的な)事実(ザイン=Sein)という次元の異なる出来事を比べあって、そこから結論を引き出すことにしたから。それまで三段論法は、以下の伝統例の通り、

  • 大前提:全ての人間は死すべきものである。
  • 小前提:ソクラテスは人間である。
  • 結論:ゆえにソクラテスは死すべきものである。

の大前提と小前提はともに事実(存在)のレベル同士だった。違うのは大前提が普遍的な事実であるのに対し小前提は個々具体的な事実という程度の違い。ゆえに両者の比較はごく自然に行なわれる。

しかし、法的三段論法はそうはいかない。規範とはゾレン~すべきこと・当為)であって、価値判断によって結論に初めて到達できるのであって、価値判断を入れないザイン~であること・存在)とは水と油のように異なる。この次元の異なる、異質なもの同士の結婚(当てはめ)が自然に、すんなりと行くはずがなく、ギクシャクするのは必然だ。

すなわち、どんなに事実(存在)を積み重ねたとしても、そこから論理必然的に規範(当為)を導き出すことはできない。必ず、或る、何かしらの「すべきである」という価値判断を加えて初めて規範(当為)に到達できる。法的三段論法では、三段論法とちがって、この価値判断を加えることが「大前提に小前提を当てはめる」ときに、暗黙のうちに、ひそかに前提とされている。価値判断の暗黙の挿入というこんな事態は三段論法ではあり得ない。

例えば、婚姻が成立するための要件として、現憲法は24条で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とうたっている。これだけ読むと、両者の「結婚する」という合意の事実で、あたかも自動的に「婚姻の成立」が導かれるように思えるが、そうではないことが明治の民法と比べたら一目瞭然だ。旧民法は「家族が婚姻または養子縁組をなすには戸主の同意を得なければならない。」(750条)と定め、両性の合意だけでは婚姻は成立しなかったからだ。つまり、「婚姻の成立」という結論は事実の積み重ねだけで自動的に導かれるのではなく、それは「婚姻の成立」をいかなる場合に認めるべきかという価値判断によって決まった。家制度を最優先する価値判断のもとでは、婚姻は「両性の合意」だけでは足りず、「戸主の同意」が必須とされた。これに対し、個人の尊厳を最優先する価値判断のもとでは、婚姻は「両性の合意」だけあれば必要かつ十分であり、それ以上、家制度の拘束は不要とされた。つまり、法的三段論法の大前提を構成する要素(要件事実)が何であるか、それは価値判断に基づいて決定されたのであり、大前提を構成する要素として特定の要件事実の組み合わせが選ばれたとき(法律的に言うと「法の制定」もしくは「法の解釈」)、その組み合わせそのものの決定過程に、明確に、法律制定者の価値判断が反映されている。

言い換えれば、大前提の中身を決定する主役は価値判断である。にもかかわらず、法的三段論法では、主役の価値判断はいくら待っても表舞台に登場しない。つまり、姿を現して中身を直接に表明することをしない。表舞台に登場するのは要件事実の組み合わせである。この登場人物のおかげで、小前提の個々具体的な事実は大前提にスムーズに当てはめることができるというわけだ。その結果、こうした、主役の登場しない法的三段論法の舞台は人々に法的三段論法を秘伝奥義(※2)と思わせる根本的な原因となった。

※2法律が「普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』」(川島武宜「科学としての法律学」)のように不信がられる原因となった。

では、なぜ、このような主役の登場しないややこしい三段論法というやり方を採用したのか。思うに、一方で、異次元同士の「事実(ザイン)の規範(ゾレン)への当てはめ」は、素直に考えれば、本来の三段論法の(「事実(ザイン)同士の当てはめ」という)論理的枠組みから逸脱している。にもかかわらず、法的三段論法のアイデアマンは、そこで三段論法の法律への応用という企てを断念しなかった。さらに言えば、断念したくなかったのだと思う。そこで、本人はどうしたか。思うに、思案の末、ひとつの解決策を思いついた。それが、そのような逸脱の批判を浴びないようにすること、つまり別に逸脱していないように人々に思わせることである。そこで、価値判断に関する事柄を法的三段論法の構成要素から消し去った(隠蔽した)。つまり、実はものすごい重要な作用として価値判断を加えているのに、表向きは何も加えていないかのような構成に仕上げた。それが上記の「主役の登場しないややこしい三段論法」である。そのおかげで、法的三段論法はあたかも本来の三段論法の(「拡張」ではなく)単なる「延長」であるかのように人々に思い込ませることに成功した(ハッキリ言えば、人々を欺いた)。

再びくり返すと、この最も重要で、本質的な「価値判断を加えること」という作用は法的三段論法の大前提の中で明示的な構成要素とされていない。その代わり、大前提を構成するこれこれの要件事実を決定する過程で「価値判断を加えること」をひそかに実践することにして、いったん要件事実が決定されたあとは、法的三段論法の構成要素として価値判断の痕跡を一切ぬぐい去ったのである。だから、この価値判断という作用は要件事実の組み合わせの決定という果実の中に実を結んでいる。つまり、要件事実の決定過程で事実と価値判断が緊密に連携して要件事実の組み合わせの決定という実を結んだ。

ところで、 価値判断が「要件事実の組み合わせ」という形で結実化するということは、今までなかったような新しい事実が出現すれば、その出現に伴って新しい価値判断をもたらす可能性がある。その結果、その新しい価値判断に基づいて、改めて「要件事実の組み合わせ」を再考し、新たな組み合わせを再構成する必要が生じる。

その新しい事実の1つが福島原発事故である。過去に前例のない人災、過酷事故である福島原発事故の出現により、その出現に伴って、事故の救済に関するこれまでの価値判断も否応なしに再考を迫られた。その結果、カタストロフィーに相応しい価値判断に基づいて、改めて、事故の救済に関する「要件事実の組み合わせ」は再考と再構成を迫られることになったのは必然である。これが 表舞台には出ない、楽屋裏での生々しい、法的三段論法の本質的な検討作業である。

しかし、法的三段論法では、価値判断は舞台に立つ登場人物ではないため、上記の本質的な検討作業は法的三段論法の構成要素の中で論じることができない。いわば最も重要な本質的な検討が法的三段論法の舞台下で、あたかも日陰者の振る舞いみたいにこっそりと演じられている。最も重要な本質的な検討が、なにかよく分からない、川島武宜に言わせれば秘伝奥義的技術であるかのように演じられている。

その意味で、今や、我々はこの価値判断の作用をヌエ的な秘伝奥義的技術とせずに、その正体を白日の下にさらし、この作用について舞台上で堂々と議論すべきである。
そのとき、次のことが異論なく承認されると思う。すなわち、
もし法的三段論法が当初予定していた事実とは異質な、新たな事実が出現したあかつきには、もはや、それまでの「価値判断」は無条件に維持できず、改めて、どのような「価値判断」が採用されるべきか、そして、採用される「価値判断」に照らし、大前提を構成する要件事実はどのような組み合わせが妥当であるのか(法律的に言えば、「法の改正」もしくは「法の再解釈」)について吟味検討する必要がある。

最後にもう一度くり返すと、法的三段論法によれば、その当初、予定していたのとは異質な、新たな具体的な事実が出現したあかつきには、もはや従来の大前提が使える保証は失われ、そこで、新たな具体的な事実を当てはめるに相応しい「新たな大前提」を準備しなくてはならなくなる。だが、その「新たな具体的な事実(小前提)」と「新たな大前提」をつなぐ論理的な「架け橋」は存在しない。なぜなら、その「架け橋」は結局のところ「価値判断」によって架けるしかないものだから。つまり、三段論法にならって論理的に組み立てられたはずの法的三段論法はここで、つまり小前提を大前提に当てはめる場面(法律的に言えば、「法の適用」の場面)において、非論理的な、価値判断に関する困難な課題に直面する。

そこで、これを論理的に解くことは不可能だとしても、なお、「事実(小前提)」と「規範(大前提)」をつなぐ架け橋を、かつての法律のような法律制定者の主観、恣意を排除して(※3)、出来る限り客観的に成し遂げるための何か解き方(処方箋)はないのだろうか。

※3)これまで、法律家や判例は、この課題を「総合判断(評価)」と称してきた。だが、これがそのまま裸のままでは、判断者の好きな通りに、自分の判断を「総合判断」と称して、押し付けることができる。「総合判断」では主観的、恣意的判断の隠れ蓑になる。
いま、そうした主観的、恣意的判断を排除するための解き方が求められている。

その手掛かりはある。尤も、この処方箋は法的三段論法の構造の中には書かれていない(※4)。しかし、この価値判断の客観化への道は、価値判断(善悪)の探求の中から見つけ出すことはなお可能なのだ。

その探求は別文で。

※4)かといって、《我々は「事実」と「規範」はどのように繋がれるのかという永遠の難問に独力で立ち向かうしかない》などと嘆く必要もない。その前にまだやれることがある。

2025年2月15日土曜日

【つぶやき4】「ずっと躓きっぱなしだった統計学の原因が判明した気がした 」 (24.10.16)

 この秋に、自分自身の中で判然と分かったことの1つが、
これまで奮闘努力してきたにもかかわらず、ずっと躓きっぱなしだった統計学の躓きの原因が判明したこと
です。それは、養老孟司が「AI支配でヒトは死ぬ」の中で、
「理解」することと「解釈」することの違い
について論じているのを読み、その通りだと思ったからです。
ここで、彼は、この2つの違いについて、
「解釈」するとは、人間の脳が自然世界に働きかけてあれこれ世界を再構成すること、その行き着く先が、AIのように、自然世界を脳化社会に置き換えてしまうこと。これに対し、
「理解」するとは、向こうからやってくるんだ、「分かった!」って。「理解」とは分かろうとして分かるものじゃなくて、いつの間にか、分かっている。いわば、ヒトが自然世界に寄り添い、付き合っているうちに自然と自然の声、ことわりが自然のほうからやってくる。
だから、「解釈」も「理解」も一見、似たような作用、機能のようだけれど、本質的に異質なもの。例えば「解釈」では、整合性が取れていることが重視され、整合性が取れていれば、一応、まともな「解釈」として評価がくだされる。しかし、いくら整合性がとれていようとも、自然(身体)からは「それはちがう!」という異論が飛び出す。これが「理解」のこと。
つまり、「理解」と「解釈」は折り合わない。
       ↑
これは、マルクスがフォイエルバッハのテーゼの中で、
哲学者はこれまで世界を「解釈」してきただけだ。必要なことは、世界を「変革」することである、
を思い出させるのですが、私にとって、マルクスのこのテーゼは次のように理解されます。
哲学者はこれまで世界を脳の中であれこれ「解釈」してきただけだ。必要なことは、世界を「理解」することである、そのために「実践=世界と交わらなければならない」。
       ↑
このように考えたとき、これまで統計学(20世紀の推測統計学)をいくら勉強しても、その時には分かった気になっても時間が経つと、綺麗さっぱり抜けてしまい、ちっとも理解が身に付かない経験を繰り返してきた、その理由が分かったような気がしたのです。
つまり、統計学はこれまで、自然世界からデータを取って、そのデータをあれこれといじくり回して「解釈」してきただけで、自然世界を「理解」してきた訳ではない。しかもその「解釈」は高度の論理的、思考的なテクニックの積み重ねの上に築かれたもので、論理的首尾一貫性に貫かれているものの、それ以上、現実的な裏付け、対応関係が取られているわけではない。
       ↑
いわば、高度の「脳的な論理的整合性」の上に築かれた統計的処理を全身全霊で「分かった!」という理解に達することはあり得ない。それはあくまでも論理という堅固な理屈の石垣の上に築かれた観念上の城にすぎないものだから、そんなものに「理解」「納得」という身体の感情が沸きあがってくるはずがない。
つまり、現代の統計学に「理解」「納得」がいかないのは、決して知能が足りないからではなく、純粋な論理性だけで築かれた世界に対する根本的な違和感に由来するもので、むしろ自然なことであり、むしろ現代の統計学に「理解」「納得」が行くという人は、よほど観念的世界に対する親和性が高い生来の観念論者だからだと思う。そんな人間はヘーゲルとかごく一握りの少数者だ。

そのからみで、昨年2月に、井戸さんの「(疫学(統計学)を理解するためには、疫学の教科書を3回読まなくては」という発言に「それはちょっとちがうんじゃない?」という以下のコメントを書いたことを思い出しました。
その時の私の積極的な見解は、
「疫学(統計学)を理解するためには、疫学(統計学)の肝を掴むことが不可欠だ」
というものでした。しかし、今はそれもまた「ちがうんじゃないか?」と思っています。理由は前述した通りで、そもそもと疫学(統計学)とは世界を「解釈」しただけのもので、自然世界を反映した「理解」を述べたものではないから、そのような観念的世界の構築物をいくら読解しても「理解」「納得」に至ることがないのがむしろ当然、自然だからです。

つまり、現代の統計学は自然世界との対応関係が離れすぎ、頭の脳の中だけで整合性の取れた観念的構築物に作っただけのものに堕している。
そのような脳化世界に対して、自然世界から「分からない!」という違和感が表明されるのはむしろ素直なことだ、と。
      ↑
これに対し、津田さんや濱岡さんがどうリアクションを示すか、興味津々です。
(陳腐な政治的用語を使えば、かつての統計偏重の左翼日和見主義から、今度は統計軽視の右翼日和見主義に転向したと批判されそうです)    

-------- Forwarded Message --------
Subject: [2019maxlaw:3190] つぶやき:なぜ統計学(疫学)が理解できないか?それは科学哲学(帰納法)が理解できていないから。
Date: Wed, 8 Feb 2023 00:56:34 +0900
From: TOshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
 
柳原です。

今日の弁護団会議で、井戸さんから「疫学(統計学)の教科書を3回読まなくては」という言葉が発せられ、それをめぐってひとしきり喋りました。

そのことが妙に引っかかって、これはどうもちがうんじゃないか、つまり3回読んでも理解できないんじゃないか。百回読んでも同じだろう、という気がしてきました。理由は疫学(統計学)が理解できないのは、疫学(統計学)の肝をつかんでいないからで、肝を掴まない限り、いっぱいいろんな情報を仕込んでも、その時はなにか分かった気になるだけで、結局、時間が経つと、元の木阿弥、ボーとするだけ(←かく申す私がそうだからです)。

で、その肝って何か?と考えていて、過去の自分の投稿を読み返して気がついたことは、
疫学(統計学)の肝はエンデの「はてしない物語」の肝と同じではないか、と。
つまり、
エンデの「はてしない物語」の肝は主人公が現実世界とファンタジーの世界とを行き来する物語ですが、これと同様のことを疫学(統計学)でもやっていて、その肝さえ掴めば、疫学(統計学)の物語は自分でもつむぐことができる。

疫学(統計学)の現実世界というのは、調査や実験によって得られた情報(観測地)で、そのデータをもとに度数分布とか平均、偏差値などを求めます。これらの作業はすべて現実世界の中での出来事です。
しかし、疫学(統計学)は或る時点で、この現実世界からファンタジーの世界にワープします。それが「度数分布」から「標本分布」を導き出す時です。ここで、私たちは現実世界からおさらばして、ファンタジーの世界に跳躍するのですが、この跳躍という飛び越えは放射能と同様、「目に見えず、触ることもできず、臭いも痛みもない」ため、ボーとしていると、世界の次元が跳躍したことに気がつかない。その結果、今までと同様、現実世界の中にいるものとばかり思って、その延長線上で思考を継続して行くと、それまでの現実世界に適合した思考方法ではちっとも理解できない未知の思考に出会い、そこで、戸惑い、混乱し、ついに、その未知の思考は自分には理解不可能だと、そこで、疫学(統計学)の学びを断念してしまうか、或いはその時、なにげに分かった気になっていたけれど、時間が経つと、このファンタジーの世界の思考方法が何だったのか、現実世界の思考にどっぷり漬かってしまっている頭では到底理解できないと悟らされます。
これが、疫学(統計学)の学びで躓く最大の理由ではないかと思うのです。

それで、疫学(統計学)におけるファンタジーの世界というのは、定義や公理から論理的な証明によって様々な命題を導き出す数学的世界のことです。具体的にな(古典的ではなく)現代の確率論の世界です。

つまり、疫学(統計学)は現実世界からスタートして「度数分布」などを作成し、そこで経験世界からおさらばして、「確率分布」である「標本分布」の数学的世界にワープします。そこで、確率論の公理(大数の法則や中心極限定理など)を駆使して、仮説検定や区間推定の舞台を引き出します。そうして、最後に再び、現実世界に戻ってきて、現実のデータを仮説検定や区間推定の舞台と照合して、最終的な結論(仮説を棄却するとか95%信頼区間の値とか)を導きます。

以上の序破急という3つの展開を通じて、つまり現実世界→数学的世界へのワープ、再び、数学的世界→現実世界への回帰という跳躍を経て求めるエンディングが得られるというのが、疫学(統計学)のストーリー。
私は、ここの序破急という3つの展開の質的転換のイメージが持てないと、百回、教科書を読んでも、永遠に理解できないんじゃないと思ったんです。

でも、現実世界→数学的世界へのワープって、イギリスの伝統的な思考方法である経験主義(帰納法)と同じやり方で、特別な方法ではありません。
現代の統計学を作ったフィッシャーはイギリス人だから、彼にとって、この思考方法は極めて自然だった。

さらに、実は、法律家はいつも帰納法で仕事をしている連中です。だって、法律家が相手にするのも現実世界の紛争の事実と観念的世界の法規範の両方で、経験世界で発生した紛争という事実を、観念的な世界の法規範に当てはめて、法規範の中であれこれ操作して結論を引き出して、紛争解決とする、現実→観念→現実という序破急という3つの展開を日々やっているからです。ただ、それを自覚せずにやってしまっているために、疫学(統計学)でも同じことをやっているんだと気がつけないでいる、と。

以上、備忘録のためのつぶやきでした。

【つぶやき3】「ずっと偏愛してきた数学が脳化社会の最大の推進者だった」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の中で最もショックだったことは、
数学こそ脳化社会を推進した最大のツールだった
ことを知ったことです。それも養老孟司の指摘でした(しかも2003年の「バカの壁」に書いてあったのに、私の「バカの壁」のせいで理解できなかった)。

私の数学に対する偏愛は、ブルーカラーという自分自身の出自に由来します。貧困からの脱出は学力しかなく、その学力のうち最も確実なのは、証明さえできればどんな考えの人からも受け入れられる数学だと直感したからです。

しかし、その数学の確実性こそが脳化社会を推進する最大の武器になったのだと、養老孟司は言います(以下)。

脳化社会は人々にものごとを了解させようと了解事項を拡大させてきたが、その了解には共通了解と強制了解の2つがある。強制了解は有無を言わせず了解させること。数学は、証明によって強制的に「これが正しい」と認めさせられる論理であり、「強制了解」の典型である。その行き着く先がAI。

AIが世界を覆いつくすということは、意識(論理)の世界が自然の世界と置き換わるということ。その結果、自然(身体)としてのヒトの調子が狂ってくる。ジレンマを抱えたヒトは、最悪の場合、AI(論理)の命ずるままに受け入れるだけで、自らモノを考え、動くことを放棄し、死んだも同然の状態に陥る(養老孟司「AI支配でヒトは死ぬ」)。

この裁判も上に述べた危惧を一層感じるようになりました。東電の100mSv論がその典型ですが、データと統計だけで被ばくと甲状腺がんの因果関係を判断していいんだという発想そのものが、AI(論理)の命ずるままに受け入れるだけで、自然(身体)と向き合い、自らモノを考えることを放棄し、死んだも同然(思考停止)の状態に陥っているからです。

子ども脱被ばく裁判の中で、LNTモデル仮説論争に関する書面を書いたとき、ポパーの「反証可能性」論で反論したのですが、この準備の中で、物理、化学などではこの「反証可能」論が妥当するけれど、ひとり数学だけはこれが通用しないんじゃないかと気がついて、ちょっと焦りました。その時には、数学は論証科学だとすれば、物理などは実験科学であって、両者は別の種類の科学なんだと考えて、「反証可能」論は実験科学のみに妥当すると考えるしかないことに思い当たりました。
つまり、数学は自然世界に関する科学ではなく、論理の世界の科学だということです。この数学の特殊な位置に気がついたとき、もし養老孟司の「脳化社会」論を知っていたら、数学こそ脳化社会の推進者だったことにも気づいたはずでした(当時作成した「科学的な証明」をめぐる整理の表を添付します)。

その自然世界と切り離された論理の世界の数学が侵入して作られたのが現代統計学です。そこでは、数学の確率論が大幅に導入され、古典統計学が一新されたからです。その結果、自然世界と強い対応関係を保っていた古典統計学ではなく、自然世界との対応関係が危うい確率論をベースにした現代統計学が今日のデータ処理の基本になったのです。

なぜ現代統計学が威力を発揮したか。それは論理という手段をフルに活用して結論を引き出せたからで、言い換えれば、自然世界との対応関係が危うい確率論をベースにしたからで、それは反面、現実の自然世界とどれくらい正確に対応しているのか、そこがどんどん危うくなっていく。それを承知で、検討委員会などは自分の都合のいい結論を現代統計学を大義名分にして引き出しています。
我々はそれに対し、単に「それは現代統計学の使い方を間違えている」とだけで反論しては足りないんじゃないか。それが今の問題意識です。

話があちこち飛びましたが、数学に対する見方がコペルニクス的転回を遂げざるを得なかった自分の体験を語りました。

【つぶやき2】続き:「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の世界観が最も変わったことの1つが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)です。これを単なる大げさ、飾り文句ではなく、文字通り、受け取るのが正しいのだと思うようになったことです。、これを指摘した養老孟司は例えば以下のように言っています(昔の本と比べ、いまひとつ切れ味が悪いですが)。

世界の見方
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

ヒトは世界+(自然の世界)から刺激を五感で受け取って、そこから先は世界-(脳化の世界)に入る。まぶしいとか、うるさいとか、暑いとか、硬いとか言う。でも世界+の実体は不明である。カント風に言えば、物自体を知ることはできない

世界+(自然の世界)は真っ暗闇である。そこから少しずつ「事実」を拾ってくる。拾われた事実(情報)がある程度豊かになると、様々な概念が生じ、ヒトは自分なりの世界像を創る。
      ↑
この自然世界は「真っ暗闇」であることを思い知らされたのは、先端科学の「素粒子論」を知った時です。以下の動画を見て、物質の世界の真相は「真っ暗闇」じゃん、我々は本当にその一部分だけ、かすかに知っただけにとどまるじゃん、と実感しました。

神の数式 完全版 第2回「“重さ”はどこから生まれるのか~自発的対称性の破れ」
https://www.dailymotion.com/video/x8md0ne
     ↑
ここに登場するのですが、それまで電子はどれも一様に回転し、磁石のような性質を持っていたことが分かっていた。ところで、1957年に、その回転に右巻きと左巻きと2種類の回転があって、その性質がちがうことが分かった。
     ↑
ここから、電子をどれもみんな同じ構造、同じ動作、同じ性質を持っているなんてどこにも断言できず、電子にも「多様性」があって、それぞれ異なる側面がある可能性のほうがリアルになってきた。
     ↑
かつて、子ども脱被ばく裁判で、ポパーが、科学的真理とは「反証可能性」を前提とした暫定的な真理=仮説にとどまると主張したことを取り上げ、LNTモデルを仮説だとして馬鹿にした国に噛み付いた書面を出しましたが、
https://darkagejapan.blogspot.com/2019/02/blog-post_12.html

これは自然の世界は「真っ暗闇」である、ということを言い換えたものです。人間がこしらえた人工的な世界(科学的知見)がいつも自然界の一部を照らす部分的な真理でしかなく、自然界の全体からはいつもこれと矛盾する事態が起きるからです。
例えば、放射能でもα線、β線、γ線の被ばくを被ばく線量で評価しますが、果して、電子でも右巻きと左巻きの異なるものがあるように、同じβ線でも、右巻きと左巻きの異なるものがあるかもしれないし、それ以外にも、異なる構造、異なる動作、異なる性質を持っているかもしれない。単に、我々の認識能力不足で、それらのちがいを見出せずにいる可能性が大きい。その結果、それらの違いが、同じ被ばくをしても、相手の人体への影響が異なってくる可能性が当然あります。それを単純に、被ばく線量だけで健康評価しているのは、ものすごい荒っぽい、雑な見方ではないかと思えるのです。

そもそも、一口に放射線といっても、α線は陽子2個と中性子2個からなるヘリウム原子核なのに対し、β線は原子核から飛び出した電子でしょう。さらに、γ線は原子核から発生する電磁波と言われます。どうして、こんなに構造も性質も異なるものが放射線としてひとつに括られるのか、それが不思議でなりません。それは、放射能をα線、β線、γ線として外形的、表面的にしか把握しておらず、これらの3つに共通する本質(電子を吹き飛ばす電離作用)に即して放射能をまだ捉えてないんだと、放射線科学の未完成ぶり、未熟さを痛感するのです。

それは、長い間、あれだけ内部被ばくの危険性を認識していながら、いまだに、その危険性にふさわしい定量化の表現つまり内部被ばくの単位を見つけていないことにも、放射線科学の未完成ぶり、未熟さを痛感するのです。

それらの放射線科学の未完成ぶり、未熟さのため、「被ばくの健康影響」に対する認識能力も極めて未熟にとどまっていると痛感せざるを得ません。

数年前に、因果関係の科学的解明のツールとして統計学にその可能性を期待し、取り組みましたが、まだ探求途上とはいえ、この間の検討で感じたことは、どんなにテクニカルな現代統計学を使っても、それで解明できるのはあくまでもデータ同士の「相関関係」にとどまることで(原因確率論もみんなそうです)、それ以上「因果関係」に踏み込むことはできない。科学として、「因果関係」の手前でとどまるのが統計学の本質的宿命(限界)だということです。
     ↑
その意味で、科学として「因果関係」に寄与できることは限られている。そこで、法的に「因果関係」を問うときに重要になるのが、「真っ暗闇」に見える自然世界の中に厳然として存在する「事実」です。それが病態論。というより、そのような視点で病態論を再発見する必要がある。
そういう目で意識(科学的知見)と自然(病態論)の関係を捉え直したとき、はからずも、原爆症認定訴訟の中で、過去の判例が原因確率論のような科学的知見を決め手とせずに、それに加えて病態論をも加味して、総合的に、法的な因果関係を判断してきたことに、改めて、深い智慧を見るような発見がありました。

この意味で、私は、この裁判が始まった最初の夏合宿でやった原爆症認定訴訟の因果関係論に、深い洞察力が込められていることに驚嘆している次第です(まだ、ちゃんと復習していないのですが)。

まとまりのない駄文で、失礼しました。

【つぶやき1】「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の世界観が最も変わったことの1つが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)です。そう指摘したのは養老孟司です。

その結果、被ばくと甲状腺がん発症の「(事実的な)因果関係」もまた、脳化社会の外側にある自然世界の出来事であり、それは我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識です。
これに対し、これまで自分なりに、脳化社会の構成要素である言葉・数字・データ・論理(統計学)を使って自然世界の出来事である「(事実的な)因果関係」を解明しようとしてきましたが、そこで「科学的知見である統計学を正しく駆使すれば、(事実的な)因果関係も解明可能であるという信念(正確には信仰)でやってきましたが、しかし、そこには根本的な思い違いがあり、それは言葉・数字・データ・論理(統計学)は「真っ暗闇」をかすかに照らす手がかりにとどまる、という認識の見直しです。

なぜ、この見直しが必要かというと、現代社会は脳化が暴走し、脳化社会を構成する要素である意識(言葉・数字・データ・論理)でもって、自然世界を置き換えていいんだというところまで考えるようになり、意識(言葉・数字・データ・論理)が自然世界(現実)に置き換わってしまった。
その結果、言葉・数字・データ・論理でもって整合性をもった説明さえできればそれを現実とみなしてよい、と思い込むようになった。
その結果、現実は言葉・数字・データ・論理によってどんどん貧しくなり、どんどんやせ細っていき、言葉・数字・データ・論理だけのAI的な世界になっていった。「セクハラ」といった決めセリフや呪いの言葉の応酬が日常化した。
     ↑
これに最も反発、反逆、反動したのが自然としてのヒトの身体です。
私には、311の数年後、3歳で東京から長野県松川町に移住した孫がいるんですが、彼は小1からバリバリの不登校児で、お昼に給食だけ食べに行くという動物的な孫を見ていて、彼が引きこもりなのはギスギスした息苦しい脳化社会に対する身体の素直な反応で、むしろまっとうなんじゃないかと思うようになりました。
この「脳化社会に猛反発、反逆、反動する身体」の深刻な現象については自死、鬱、いじめ、引きこもり、様々な「‥‥ハラ」現象から、腰痛、アトピー、不眠など様々な健康障害まで、今日の至る所に蜘蛛の巣のように切れ目なく発生していて、いわゆる生命、身体、健康に対する最大の加害者は、一握りの悪徳業者とかではなく、我々が築いた脳化社会自体だと断言していいんだと思うようになりました。

そこからどうこの脳化社会の暴走に立ち向かうのか、という課題が私にとって最大のテーマになっています。それは過去最大級の途方もない、大きなテーマで、一瞬、気が遠くなるのですが、他方で、以下に書きました、病態論の位置づけの再構成というふうに、現実の問題である甲状腺がん裁判そのものの取り組みにももろ影響する課題です。

なので、そのためにも、もう一度、
脳化社会の外側にある自然世界は我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識について、
リアルな実感を抱くようになったいきさつについて、長くなったので、別便で書きます。

【つぶやき9】追出し裁判、最高裁に上告受理申立ての3通目の補充書を提出:規範が事前の規範と事後の規範の2方面に作用するのに着目し、住まいの権利裁判の先日の成果を追出し裁判に活用(25.11.19)

                               追出し裁判、最高裁に 補充書(2) を提出(11月17日) 1、概要  住まいの権利裁判の前々回の9月1日から前回の11月12日までの2ヶ月余りの間、仮設住宅提供の打ち切りを決めた内掘県知事決定の裁量権の逸脱濫用の適否...