2025年11月1日土曜日

【つぶやき5】トマス・アクィナスの謎:なぜキリスト教はのちにギリシャ哲学と結婚(融合)できたのか(25.11.2)

1、はじめにーーずっと分からなかった謎ーー
キリスト教が中世に至って、とくに13世紀にトマス・アクィナスによって、ギリシャ哲学とくにアリストテレスの哲学と融合したと言われる。むろんトマス・アクィナス個人ははなからアリストテレスの哲学に夢中だったから、これをキリスト教と合体させようとしたのは自然だとしても、問題はなぜ彼のそのような行為が異端視されず(実際はされそうになった)、むしろキリスト教の正統とみなされるに至ったのか。これはトマス・アクィナス自身にとっても、大きな謎だったはずだーー自分がやった「宗教と哲学の結婚の試み」が異端とされず、火あぶりにも処せられなかったのはなぜか?

客観的にみたら、宗教が哲学と結婚するとき、当時の哲学は自然哲学・論理学だから、それは規範(善悪)と存在(真偽)の結婚だ。前者は価値判断に基づくもの、後者は価値判断を排した客観的な存在の問題。もともと次元のちがうもの同士が合体するというのは一体どういうことなのか。

なぜなら、どんなに事実(存在)を積み重ねたとしても、そこから論理必然的には規範(善悪)を導き出すことはできない。両者の間は論理的に分断されているから。

にもかかわらず、両者の間を論理的につなごうとしたトマス・アクィナスは一体どうやって、この無謀な試みに挑戦したのだろうか? 

これについて思ってきたことは、 規範(善悪)と存在(真偽)の分断は、暗闇の中の跳躍という無根拠の、半ばヤケクソの「実践」だったら可能、というよりそれしか可能性はないと考えてきた。

2、ひとつの手掛かり
しかし、今、それ以外にも、この分断に橋を掛けることは可能ではないかと気がついた。

それが上記の「 どんなに事実(存在)を積み重ねたとしても、そこから論理必然的には規範(善悪)を導き出すことはできない。両者の間は論理的に分断されている」。しかし、たとえそうだとしても、事実の積み重ねによって規範(善悪)に限りなく近づくことはなお可能なのだ。つまり、事実の積み重ねの極限形態、それが規範(善悪)だと(※1)。
だとすれば、我々は、規範からみて最も至当に思われる「事実」を丹念に積み重ねていくことしかできないのではないか、それがここで言う「実践」という意味だ
※2※3。 

※1)極限の登場
数学の解析の世界では、物事を「極限」として捉える。速度を捉えるのに、一定時間で進んだ一定距離について、「一定距離÷一定時間」の式で
一定速度が導かれるこの式に、一定時間をどんどんゼロに限りなく近づけていったその極限の末に、「無限小の距離÷無限小の時間=瞬間速度」を導くことがやられている。ここでは、単純な「事実」の中だけで計算が行われているのではなく、 むしろ、「事実」の無限の積み重ねの中で、その極限の果てに「無限小」なるものを想定(仮想)して、そこから法則(ここでは瞬間速度)に辿り着くことが実現している。これは、それまでの単純な「事実」の中だけで計算してきた者にとって驚異的なアイデアである。17世紀に発見された、この発想の転換を、今ここで、事実と規範の分断を克復するアイデアを想起することは十分意味がある。 

※2孟子の「惻隠の情」
これに似たことを言った人がいる。孟子。彼は「惻隠の情」というものが人には誰にも備わっているという。これは事実(存在)のことだ。この「惻隠の情」は仁(規範)そのものではないが、仁の「端(はじめ)=端緒」だという。そして、この端緒を拡充する努力を積み重ねていく中で、ついに仁に至ることが可能になるという。
これは惻隠の情と仁とは別ものだが、しかし、惻隠の情から出発してその積み重ねの努力の中から、いつか仁に至るという事実の規範(仁)と事実(惻隠の情)の関係について、こんな大昔に、このような繊細な考察をしていたことに、正直、ただ驚嘆するのみ。

※3)関係性についての考察
これは或る2つの
出来事を同一のものかそれとも別のものかと問うことと、もしその答えが「別のもの」だとしても、なお、2つの出来事の関係は全くの無関係かそれとも、特定の関係が認められるかという問いが残されており、もしその答えが「特定の関係が認められる」だとしたら、次にそれはどんな関係かを問うことが必要になる、この考察の重要性を実際に示してみせたものだ。

3、もうひとつの気づき
宗教と哲学の結婚は、少なくともトマス・アクィナスの場合、その宗教が普遍宗教の性格を帯びていたからだ。彼にとって、普遍性の追求とキリスト教への信仰は不可分一体になっていて、その結果、彼の中では普遍性の追求が存在(真偽)の分野にも振り向けられたのはごく自然のことだった。そして、そこでアリストテレスの哲学と出会った。
アクィナスの中では、普遍性がキリスト教と哲学を合体させる最大の動機付け(モチーフ)になっていた。その結果、キリスト教のとくにその基礎(インフラ)となる分野を哲学でもって普遍化するのは彼にとって極めて自然なことであった。

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