この秋に、自分自身の中で判然と分かったことの1つが、
これまで奮闘努力してきたにもかかわらず、ずっと躓きっぱなしだった統計学の躓きの原因が判明したこと
です。それは、養老孟司が「AI支配でヒトは死ぬ」の中で、
「理解」することと「解釈」することの違い
について論じているのを読み、その通りだと思ったからです。
ここで、彼は、この2つの違いについて、
「解釈」するとは、人間の脳が自然世界に働きかけてあれこれ世界を再構成すること、その行き着く先が、AIのように、自然世界を脳化社会に置き換えてしまうこと。これに対し、
「理解」するとは、向こうからやってくるんだ、「分かった!」って。「理解」とは分かろうとして分かるものじゃなくて、いつの間にか、分かっている。いわば、ヒトが自然世界に寄り添い、付き合っているうちに自然と自然の声、ことわりが自然のほうからやってくる。
だから、「解釈」も「理解」も一見、似たような作用、機能のようだけれど、本質的に異質なもの。例えば「解釈」では、整合性が取れていることが重視され、整合性が取れていれば、一応、まともな「解釈」として評価がくだされる。しかし、いくら整合性がとれていようとも、自然(身体)からは「それはちがう!」という異論が飛び出す。これが「理解」のこと。
つまり、「理解」と「解釈」は折り合わない。
↑
これは、マルクスがフォイエルバッハのテーゼの中で、
哲学者はこれまで世界を「解釈」してきただけだ。必要なことは、世界を「変革」することである、
を思い出させるのですが、私にとって、マルクスのこのテーゼは次のように理解されます。
哲学者はこれまで世界を脳の中であれこれ「解釈」してきただけだ。必要なことは、世界を「理解」することである、そのために「実践=世界と交わらなければならない」。
↑
このように考えたとき、これまで統計学(20世紀の推測統計学)をいくら勉強しても、その時には分かった気になっても時間が経つと、綺麗さっぱり抜けてしまい、ちっとも理解が身に付かない経験を繰り返してきた、その理由が分かったような気がしたのです。
つまり、統計学はこれまで、自然世界からデータを取って、そのデータをあれこれといじくり回して「解釈」してきただけで、自然世界を「理解」してきた訳ではない。しかもその「解釈」は高度の論理的、思考的なテクニックの積み重ねの上に築かれたもので、論理的首尾一貫性に貫かれているものの、それ以上、現実的な裏付け、対応関係が取られているわけではない。
↑
いわば、高度の「脳的な論理的整合性」の上に築かれた統計的処理を全身全霊で「分かった!」という理解に達することはあり得ない。それはあくまでも論理という堅固な理屈の石垣の上に築かれた観念上の城にすぎないものだから、そんなものに「理解」「納得」という身体の感情が沸きあがってくるはずがない。
つまり、現代の統計学に「理解」「納得」がいかないのは、決して知能が足りないからではなく、純粋な論理性だけで築かれた世界に対する根本的な違和感に由来するもので、むしろ自然なことであり、むしろ現代の統計学に「理解」「納得」が行くという人は、よほど観念的世界に対する親和性が高い生来の観念論者だからだと思う。そんな人間はヘーゲルとかごく一握りの少数者だ。
そのからみで、昨年2月に、井戸さんの「(疫学(統計学)を理解するためには、疫学の教科書を3回読まなくては」という発言に「それはちょっとちがうんじゃない?」という以下のコメントを書いたことを思い出しました。
その時の私の積極的な見解は、
「疫学(統計学)を理解するためには、疫学(統計学)の肝を掴むことが不可欠だ」
というものでした。しかし、今はそれもまた「ちがうんじゃないか?」と思っています。理由は前述した通りで、そもそもと疫学(統計学)とは世界を「解釈」しただけのもので、自然世界を反映した「理解」を述べたものではないから、そのような観念的世界の構築物をいくら読解しても「理解」「納得」に至ることがないのがむしろ当然、自然だからです。
つまり、現代の統計学は自然世界との対応関係が離れすぎ、頭の脳の中だけで整合性の取れた観念的構築物に作っただけのものに堕している。
そのような脳化世界に対して、自然世界から「分からない!」という違和感が表明されるのはむしろ素直なことだ、と。
↑
これに対し、津田さんや濱岡さんがどうリアクションを示すか、興味津々です。
(陳腐な政治的用語を使えば、かつての統計偏重の左翼日和見主義から、今度は統計軽視の右翼日和見主義に転向したと批判されそうです)
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Subject: [2019maxlaw:3190]
つぶやき:なぜ統計学(疫学)が理解できないか?それは科学哲学(帰納法)が理解できていないから。
Date: Wed, 8 Feb 2023 00:56:34 +0900
From: TOshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
柳原です。
今日の弁護団会議で、井戸さんから「疫学(統計学)の教科書を3回読まなくては」という言葉が発せられ、それをめぐってひとしきり喋りました。
そのことが妙に引っかかって、これはどうもちがうんじゃないか、つまり3回読んでも理解できないんじゃないか。百回読んでも同じだろう、という気がしてきました。理由は疫学(統計学)が理解できないのは、疫学(統計学)の肝をつかんでいないからで、肝を掴まない限り、いっぱいいろんな情報を仕込んでも、その時はなにか分かった気になるだけで、結局、時間が経つと、元の木阿弥、ボーとするだけ(←かく申す私がそうだからです)。
で、その肝って何か?と考えていて、過去の自分の投稿を読み返して気がついたことは、
疫学(統計学)の肝はエンデの「はてしない物語」の肝と同じではないか、と。
つまり、
エンデの「はてしない物語」の肝は主人公が現実世界とファンタジーの世界とを行き来する物語ですが、これと同様のことを疫学(統計学)でもやっていて、その肝さえ掴めば、疫学(統計学)の物語は自分でもつむぐことができる。
疫学(統計学)の現実世界というのは、調査や実験によって得られた情報(観測地)で、そのデータをもとに度数分布とか平均、偏差値などを求めます。これらの作業はすべて現実世界の中での出来事です。
しかし、疫学(統計学)は或る時点で、この現実世界からファンタジーの世界にワープします。それが「度数分布」から「標本分布」を導き出す時です。ここで、私たちは現実世界からおさらばして、ファンタジーの世界に跳躍するのですが、この跳躍という飛び越えは放射能と同様、「目に見えず、触ることもできず、臭いも痛みもない」ため、ボーとしていると、世界の次元が跳躍したことに気がつかない。その結果、今までと同様、現実世界の中にいるものとばかり思って、その延長線上で思考を継続して行くと、それまでの現実世界に適合した思考方法ではちっとも理解できない未知の思考に出会い、そこで、戸惑い、混乱し、ついに、その未知の思考は自分には理解不可能だと、そこで、疫学(統計学)の学びを断念してしまうか、或いはその時、なにげに分かった気になっていたけれど、時間が経つと、このファンタジーの世界の思考方法が何だったのか、現実世界の思考にどっぷり漬かってしまっている頭では到底理解できないと悟らされます。
これが、疫学(統計学)の学びで躓く最大の理由ではないかと思うのです。
それで、疫学(統計学)におけるファンタジーの世界というのは、定義や公理から論理的な証明によって様々な命題を導き出す数学的世界のことです。具体的にな(古典的ではなく)現代の確率論の世界です。
つまり、疫学(統計学)は現実世界からスタートして「度数分布」などを作成し、そこで経験世界からおさらばして、「確率分布」である「標本分布」の数学的世界にワープします。そこで、確率論の公理(大数の法則や中心極限定理など)を駆使して、仮説検定や区間推定の舞台を引き出します。そうして、最後に再び、現実世界に戻ってきて、現実のデータを仮説検定や区間推定の舞台と照合して、最終的な結論(仮説を棄却するとか95%信頼区間の値とか)を導きます。
以上の序破急という3つの展開を通じて、つまり現実世界→数学的世界へのワープ、再び、数学的世界→現実世界への回帰という跳躍を経て求めるエンディングが得られるというのが、疫学(統計学)のストーリー。
私は、ここの序破急という3つの展開の質的転換のイメージが持てないと、百回、教科書を読んでも、永遠に理解できないんじゃないと思ったんです。
でも、現実世界→数学的世界へのワープって、イギリスの伝統的な思考方法である経験主義(帰納法)と同じやり方で、特別な方法ではありません。
現代の統計学を作ったフィッシャーはイギリス人だから、彼にとって、この思考方法は極めて自然だった。
さらに、実は、法律家はいつも帰納法で仕事をしている連中です。だって、法律家が相手にするのも現実世界の紛争の事実と観念的世界の法規範の両方で、経験世界で発生した紛争という事実を、観念的な世界の法規範に当てはめて、法規範の中であれこれ操作して結論を引き出して、紛争解決とする、現実→観念→現実という序破急という3つの展開を日々やっているからです。ただ、それを自覚せずにやってしまっているために、疫学(統計学)でも同じことをやっているんだと気がつけないでいる、と。
以上、備忘録のためのつぶやきでした。
2025年2月15日土曜日
【つぶやき4】「ずっと躓きっぱなしだった統計学の原因が判明した気がした 」 (24.10.16)
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