2025年10月30日木曜日

【法律学批判○】太田勝造「社会科学の理論とモデル 7法律」への感想(25.10.30)

 これは、太田勝造「社会科学の理論とモデル 7法律」の「はじめに」を読んだ感想。
1、彼は、その2頁目ラストでこう書いている。

本書は、社会科学の理論とモデルの一部を法律の分野に適用しようとする試みである。

この1行を読んだ瞬間、彼は法律のことを間違って理解している、つまり、そもそも社会科学の理論とモデルを法律に適用しようという試み自体が間違っていると思った。
なぜなら、法律はもともと社会科学の対象ではなく、精々、法律の中の一分野である事実論のみが社会科学の対象となり得るにすぎず、法律の本領・本命である法律論は宗教学・倫理学・論理学の対象となり得ても、社会科学の対象ではないから。

私の上記の理由は社会科学における任務を、自然科学と同様、もっぱら「事実」の究明・解明にあると考え、「価値判断」の究明・解明を主要な任務とする政策、倫理、法律、宗教とは一線を画すると考えるから、つまり「事実判断と価値判断の峻別」という立場に立つからである。

ところが、太田は法律もまた社会科学の一分野だと考え、ゆえに、社会科学の理論とモデルを法律に適用するのは可能であると考え、それに挑戦した。しかし、それが挫折するのは必然であった。「価値判断」の究明・解明を主要な任務とする法律に、「事実」の究明・解明を任務とする社会科学の理論やモデルがうまく使えないのはことの性質上、当然だから。

2、しかし、法律と社会科学の次元の異なるちがいに気がつかないのか、太田は、己の挫折の理由を理解せず、むしろ挫折した矛先を法律の非科学的な性格に振り向け、こう言うーー法律学の議論は、カルトの教義と区別がつかないように思われるかもしれない。法律学における「理論」とは、仮説を構築し、検証・反証に曝すための理論ではなく、とりたてて根拠があるとは限らないようなドグマ(教義)の「体系」であり、これを信じて他者に対して使えるようになることが法律学を身につけることである。‥‥(はじめに3頁)

彼は法律の理論が科学の方法論である「仮説を構築し、検証・反証に曝す」こととは無縁の、唯我独尊的なドグマ(教義)であると批判するが、これは科学の方法論である「反証可能性」の理論こそ絶対の正しいものであるという立場からこの理論を採らない法律を断罪するものである。しかし、前述した通り、もっぱら「事実」の究明・解明を任務とする科学は、「価値判断」の究明・解明を主な任務とする法律学とはその性格が水と油ほどちがい、従って、両者の方法論もまた 水と油ほどかは別にして、ちがって来るのはむしろ必然である。もし法律の理論を批判するのであれば、まず、「価値判断」の究明・解明を主な任務とする法律学においても、その理論は科学と同様、「仮説を構築し、検証・反証に曝す」という方法論が適用されるべきであることを証明してから、そののちに上記の批判をすべきである。その証明もしないで、無条件に科学の方法論を取らないのはおかしいと批判するのはそのやり方こそ唯我独尊的でドグマティックだと言われても仕方ない。

3、かつて、大学院生時代に、証明論で画期的な論文を発表した彼は、その論文が法律の中の「事実」論の分野の一テーマだったせいもあり、爾後、彼の中では「事実」論がたえず大きな関心事だったにちがいない。しかし、前述した通り、法律学の本領・本命は「価値判断をエッセンスとする法律論」にある。そこでは、事実の証明といった、社会科学と同一レベルで議論が可能とは限らず、むしろ事実とは異次元の、規範(価値判断)の究明・解明という次元で独自の議論を展開する必要が大であった。その意味で、法律の世界とくに事実論の分野では、社会科学の理論・モデルをベース(基礎)に置きながら(※1)、そこから飛び立って、社会科学にはない、法律に独自の課題「規範(価値判断)の究明・解明」に向けて、新たな、独自の理論・モデルを構築するという困難な課題を抱えていることに目覚めるべきだった。そして、そのことを曲りなりに、やろうとしたのが【法律学批判1】から【法律学批判○】。

※1)ちょうど、芸術作品などの著作権の分野で、著作物の評価という事実論においては、作品の構造分析などの芸術論の理論・モデルをベース(基礎)に置きながら、法律問題を解くことが著作物の現実を踏まえたリアルな法的評価を可能ならしめるとされるのとパラレルな関係にある。

4、もうひとつ、太田がやるべきだったのに、今までとうとうやらなかった(のではないかと思われる)ことがある。それは、ソクラテスの弁明。つまり、
彼は他の研究者には見られない鋭い視点があったのだから、その鋭い視点で、ドグマ(教義)の中に思考停止して安住する既成の法律家たちに対して、ソクラテスのように背理法を使った対話を試み、惰眠を貪る彼らのドグマを粉砕・破綻するのを見届ける問答を徹底してーーソクラテスが自ら、馬にまとわりつく虻みたいにアテネの市民に対話を仕掛けたようにーーやり遂げるべきだった。そして、一度は法曹界を覆っているドグマを粉砕しておくべきだった。その批判によるドグマ破壊活動を経た後に、(事実論の分野とはいえ)社会科学の理論・モデルを法律に応用して、新たな建設を行うべきだった。

しかし、この批判破壊活動をしないまま、いくら熱心に、新たな建設活動に取り組んでみても、保守本流の中で惰性・惰眠を貪るような法学者たちにとっては彼の提案は痛くもかゆくもない(なぜなら、自分たちが逃げ込むドグマは破壊されないでちゃんと残っているから)。だから、彼らはそのドグマにぬけぬけと安住したまま、彼の提案を単にさっさとスルーするだけであった(と思う)。

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