【法律学批判2】で次の通り書いたーー数学を解くとは、問題を別の問題に次々と置き換えることであり、その置き換えを通じてついに問題が解けるようになる。その方法は数学に限らない。ここでも応用可能である。そう信じて、この「類型化」の問題をさらに別の問題に置き換えるべく挑戦することにする。
以下、その試み。
我妻栄は、民法90条の「公序良俗違反」の判断を類型化に求め、その類型化への道を次のように説いた。
一面、従来の判例及びこれに対する学者・社会一般の批評を仔細に観察、
多面、活眼を開いて、当代の社会思想と社会制度とを観察し、
もって、具体的な標準を誤まらないように努めるべしと。
その際、判例によれば、価値判断の標準が「個人の自由からその社会的影響」に推移しようとするものが多いことに注意すべきと(民法講義Ⅰ〔306〕)。
しかし、これだけでは類型化の手掛かりの一端は掴めても、どうやって規範を類型的な事実に置き換えたのか、その秘密を解くことはできない。つまり、「規範の類型事実化」を別の問題に置き換えたことにはならない。
しかし、ここにはひとつだけ、重要な手掛かりがある。それは、
従来の判例の探求の重要性を説いていることだ。
なぜ、判例の探求が重要なのか。
そこには、生きた紛争の現場で使われている生成中の規範が存在するからだ。判例は紛争から自動的に生成されたものではない。判例を可能にしているのは、そこに、悪という理不尽な法律関係に対し、NO!という声をあげて訴訟を起こした弱者自身によるアクションがあったからだ。提訴という彼らの抵抗権の行使が(もちろん全てではないが)、これらの判例として実を結んでいるからだ。
その意味で、判例の探求と言うのは、「悪の法律関係に対する人民の抵抗権の行使」、その記録の探求なのだ。
つまり、提訴という市民の抵抗権の行使から、規範はより具体的な形を取る。それはどこからか。悪という事実からだ。市民はこ難しい道徳の観念については知らないかもしれないが、自分が身をもって全身全霊で体験している悪の関係については、「おかしい!許せない!」という絶対の感性を持っている。
つまり、規範は善と悪というコインの両面のうち、悪の面から眺めたとき、その正体が明白となる。
これに対し、今日、善と悪の区別は曖昧になった、相対化したとかグチャグチャ言われる。しかし、悪は悪の被害を受けた人たちにとっては曖昧でも相対化でもない、歴然とした明白な事実だ(人の頭を上から靴で踏んだ者にとって、それが何を意味するか分からないとしても、踏まれた人にとってその意味は明々白々である)。つまり、悪は何よりもまず、悪の被害を受けた者にとってどのようなものであるかという観点から評価されるべきもので、その時、悪は殆どの場合、明白な正体を現すであろう。
その結果、抵抗とは、悪の事実に対し、NO!という抵抗の叫びと行動のことを言う。この時、抵抗は(悪という)事実から規範に揚棄(羽化)する、最初の一歩となる。
以上から、「規範の類型事実化」とは、規範を被害者からみた悪に着目して、その悪の類型化ということになる。我妻栄の公序良俗違反の類型化も(「民法講義Ⅰ〔306〕)、よく観察すると、被害者からみた悪に着目して、その悪の類型化を試みたものであることが分かる。
その際、重要なことの1つは、悪をどの点で捉えるかである。悪を行使する側も(悪智慧が働く者であればあるほど)やたらめったら悪行を働くのではなく、必要最小限の悪しか使わない。そのため、悪に抵抗する側も、この点をよくわきまえる必要がある。いったい、悪者はどこに悪の必殺技を仕掛けたのか、その所在を突き止める必要があり、その必殺技に対して、こちらもそこで勝負に出て、これをひっくり返す抵抗に出るべきである。それが善の事実を否定した悪、その悪をさらに否定した抵抗の具体的アクションであり、それは「否定の否定」という止揚の勝負どころである。
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