2025年10月29日水曜日

【法律学批判2】法的三段論法の事実(小前提)と規範(大前提)を繋ぐ客観的な「架け橋」の探求その1「規範の類型事実化」(25.10.29)

 【法律学批判1】で次のことを述べた。
1、「事実(小前提)」と「規範(大前提)」をつなぐ架け橋は論理的には不可能である。なぜなら、それは論理とは異なる、判断者の価値判断に基づいて架けられる橋だから。
2、その上で、この架け橋が判断者の主観、恣意を排除し客観的なものにするために何が可能か、何をなすべきか。この「価値判断(規範)の客観化」が問われている。

「価値判断(規範)の客観化」はどうやったら解けるのか。
今、思い当たるのは次の2つ。
1つは、「規範の事実化」より正確にいうと「規範の類型事実化」。
もう1つは、ソクラテスの問答、一種の背理法により、判断者が採用する価値判断が破綻、矛盾に陥ることを示して、その価値判断を破棄させること。
       ↑
尤も、この2つは別々のものではなく、セットとして考えることができる。つまり、後者は誤った価値判断を消去する解き方であり、前者は正しい価値判断を建設する解き方だから。具体的には、既に世に受け入れられている価値判断を批判し、その克復の必要性を証明するためにソクラテスの問答が使われ、それが成し遂げられたあとは、新たな価値判断を導入するための方法として、前者が使われる。
順番に述べる。

1、「規範の事実化」とは何か。それは、もともと規範とは事実と無関係に、独自に存在するものではなく、事実の中から誕生し、育まれるもの。つまり、事実から生成するもの。生成法(1)とはそのことを指す。だとしたら、規範を(規範が誕生するもととなった)事実の組み合わせとして構成することは十分可能だ。その1つが、法律的に「類型化」と呼ばれる解き方。例えば、民法90条の「公序良俗違反」。この抽象的な規範は、そのままでは使い物にならず、法律家はその類型化に努めている。言い換えると、「類型化」とはより具体的な事実によって抽象的な規範を再構成し、もって、事実と規範をつなぐ架け橋を架ける解き方のこと。

1)生成法とは、民衆の間で流通(交換)している事実がやがて法的確信にまで高められ、その法的確信がじわじわと拡大する中で、或る時点でそれが法規範(慣習法)として誕生するという見方。

ただし、こう言ったからと言って、 事実と規範をつなぐ架け橋があたかも自動的に生成できるわけではない。そこでは、どうやったら「類型化」が可能になるのか、今度はその解き方が問題となる。つまり、問題の解き方が別のものに置き換わったのだ。数学を解くとは、問題を別の問題に次々と置き換えることであり、その置き換えを通じてついに問題が解けるようになる。その方法は数学に限らない。ここでも応用可能である。そう信じて、この「類型化」の問題をさらに別の問題に置き換えるべく挑戦することにする。

そこで、次の問題は「規範の類型事実化」はいかなる問題に置き換えることができるか。
これについては別文で。

2、ソクラテスの問答
ここでは、ソクラテスの問答がなぜ必要か、なぜ重要かについて述べる。
それは、法律の判断者は、往々にして、とりわけ保守的な価値観に従う者たちは、我々がいくら「新しい事実」に相応しい「新しい法規範」を訴えても、そしてその訴えに正面からは何一つ反論しなくても(実際はできないのだが)、だからといって、我々の訴えを採用する訳ではなく、「価値判断の相対性」の名の下に旧来の法規範にしがみついて、これを固守するという抜き難い性癖があるからだ。だから、このような人たちに対しては、あらかじめ、ソクラテスの問答によって、彼らがすがる旧来の法規範の破綻、矛盾を余すところなく明らかにして、彼らが旧来の法規範に逃げ込もうとする退路を断っておく必要がある。

【法律学批判1】法律を法的三段論法により再構成しようと企てた瞬間、論理的に永遠に解けない躓きとヌエ(似非・擬似)論理が誕生した(25.10.28)

 秘密投票は民主主義の最高の制度の1つとして根付いている。しかし、このノーベル賞級のアイデアを誰が思い付いたのか、誰も知らない。

これと同様、法的三段論法(1)は近代の法律の根本原理の1つとして根付いている。しかし、いったい誰がこのアイデアを思い付いたのか、誰も知らない。

1)「大前提」に「小前提」を当てはめて「結論」を導き出す思考方法。

ただ、 このアイデアは法的三段論法の名の通り、アリストテレスが整備したとされる三段論法を法律に応用したもの。ゆえに、このアイデアを思いついた人はアリストテレスの論理学を使って、法律の構造を首尾一貫した論理構造に仕立てて、もって、権力者による法律の主観的、恣意的運用を排除すること(「人の統治」の否定)を目指したのだと思う。それならば、このアイデアを最初に実行した人が13世紀のトマス・アクィナス。彼はアリストテレスの三段論法をキリスト教に応用した最初の人物として知られる。「宗教の論理化」--その偉大な成功に見習って、だったらこのアイデアは法律にも使えると、ひそかに思った人が法的三段論法の最初のアイデアマンではないかに思う。

その真相はともかく、ここで重要なことは、一方で、「法律の論理化」により、法律はそれまでの権力者による主観的、恣意的運用を排除して、機械的とも言うべき正確・厳密な運用が担保されることになった。これはこれでひとつの立派な「正義」だ。

しかし、同時に他方で、「法律の論理化」により、法律はそれまで三段論法が予定していなかった新たな困難をしょい込むことになった。それが2つの前提のうち、一方の大前提には規範(ゾレン=Sollen)、他方の小前提には(個々具体的な)事実(ザイン=Sein)という次元の異なる出来事を比べあって、そこから結論を引き出すことにしたから。それまで三段論法は、以下の伝統例の通り、

  • 大前提:全ての人間は死すべきものである。
  • 小前提:ソクラテスは人間である。
  • 結論:ゆえにソクラテスは死すべきものである。

の大前提と小前提はともに事実(存在)のレベル同士だった。違うのは大前提が普遍的な事実であるのに対し小前提は個々具体的な事実という程度の違い。ゆえに両者の比較はごく自然に行なわれる。

しかし、法的三段論法はそうはいかない。規範とはゾレン~すべきこと・当為)であって、価値判断によって結論に初めて到達できるのであって、価値判断を入れないザイン~であること・存在)とは水と油のように異なる。この次元の異なる、異質なもの同士の結婚(当てはめ)が自然に、すんなりと行くはずがなく、ギクシャクするのは必然だ。

すなわち、どんなに事実(存在)を積み重ねたとしても、そこから論理必然的に規範(当為)を導き出すことはできない。必ず、或る、何かしらの「すべきである」という価値判断を加えて初めて規範(当為)に到達できる。法的三段論法では、三段論法とちがって、この価値判断を加えることが「大前提に小前提を当てはめる」ときに、暗黙のうちに、ひそかに前提とされている。価値判断の暗黙の挿入というこんな事態は三段論法ではあり得ない。

例えば、婚姻が成立するための要件として、現憲法は24条で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とうたっている。これだけ読むと、両者の「結婚する」という合意の事実で、あたかも自動的に「婚姻の成立」が導かれるように思えるが、そうではないことが明治の民法と比べたら一目瞭然だ。旧民法は「家族が婚姻または養子縁組をなすには戸主の同意を得なければならない。」(750条)と定め、両性の合意だけでは婚姻は成立しなかったからだ。つまり、「婚姻の成立」という結論は事実の積み重ねだけで自動的に導かれるのではなく、それは「婚姻の成立」をいかなる場合に認めるべきかという価値判断によって決まった。家制度を最優先する価値判断のもとでは、婚姻は「両性の合意」だけでは足りず、「戸主の同意」が必須とされた。これに対し、個人の尊厳を最優先する価値判断のもとでは、婚姻は「両性の合意」だけあれば必要かつ十分であり、それ以上、家制度の拘束は不要とされた。つまり、法的三段論法の大前提を構成する要素(要件事実)が何であるか、それは価値判断に基づいて決定されたのであり、大前提を構成する要素として特定の要件事実の組み合わせが選ばれたとき(法律的に言うと「法の制定」もしくは「法の解釈」)、その組み合わせそのものの決定過程に、明確に、法律制定者の価値判断が反映されている。

言い換えれば、大前提の中身を決定する主役は価値判断である。にもかかわらず、法的三段論法では、主役の価値判断はいくら待っても表舞台に登場しない。つまり、姿を現して中身を直接に表明することをしない。表舞台に登場するのは要件事実の組み合わせである。この登場人物のおかげで、小前提の個々具体的な事実は大前提にスムーズに当てはめることができるというわけだ。その結果、こうした、主役の登場しない法的三段論法の舞台は人々に法的三段論法を秘伝奥義(※2)と思わせる根本的な原因となった。

※2法律が「普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』」(川島武宜「科学としての法律学」)のように不信がられる原因となった。

では、なぜ、このような主役の登場しないややこしい三段論法というやり方を採用したのか。思うに、一方で、異次元同士の「事実(ザイン)の規範(ゾレン)への当てはめ」は、素直に考えれば、本来の三段論法の(「事実(ザイン)同士の当てはめ」という)論理的枠組みから逸脱している。にもかかわらず、法的三段論法のアイデアマンは、そこで三段論法の法律への応用という企てを断念しなかった。さらに言えば、断念したくなかったのだと思う。そこで、本人はどうしたか。思うに、思案の末、ひとつの解決策を思いついた。それが、そのような逸脱の批判を浴びないようにすること、つまり別に逸脱していないように人々に思わせることである。そこで、価値判断に関する事柄を法的三段論法の構成要素から消し去った(隠蔽した)。つまり、実はものすごい重要な作用として価値判断を加えているのに、表向きは何も加えていないかのような構成に仕上げた。それが上記の「主役の登場しないややこしい三段論法」である。そのおかげで、法的三段論法はあたかも本来の三段論法の(「拡張」ではなく)単なる「延長」であるかのように人々に思い込ませることに成功した(ハッキリ言えば、人々を欺いた)。

再びくり返すと、この最も重要で、本質的な「価値判断を加えること」という作用は法的三段論法の大前提の中で明示的な構成要素とされていない。その代わり、大前提を構成するこれこれの要件事実を決定する過程で「価値判断を加えること」をひそかに実践することにして、いったん要件事実が決定されたあとは、法的三段論法の構成要素として価値判断の痕跡を一切ぬぐい去ったのである。だから、この価値判断という作用は要件事実の組み合わせの決定という果実の中に実を結んでいる。つまり、要件事実の決定過程で事実と価値判断が緊密に連携して要件事実の組み合わせの決定という実を結んだ。

ところで、 価値判断が「要件事実の組み合わせ」という形で結実化するということは、今までなかったような新しい事実が出現すれば、その出現に伴って新しい価値判断をもたらす可能性がある。その結果、その新しい価値判断に基づいて、改めて「要件事実の組み合わせ」を再考し、新たな組み合わせを再構成する必要が生じる。

その新しい事実の1つが福島原発事故である。過去に前例のない人災、過酷事故である福島原発事故の出現により、その出現に伴って、事故の救済に関するこれまでの価値判断も否応なしに再考を迫られた。その結果、カタストロフィーに相応しい価値判断に基づいて、改めて、事故の救済に関する「要件事実の組み合わせ」は再考と再構成を迫られることになったのは必然である。これが 表舞台には出ない、楽屋裏での生々しい、法的三段論法の本質的な検討作業である。

しかし、法的三段論法では、価値判断は舞台に立つ登場人物ではないため、上記の本質的な検討作業は法的三段論法の構成要素の中で論じることができない。いわば最も重要な本質的な検討が法的三段論法の舞台下で、あたかも日陰者の振る舞いみたいにこっそりと演じられている。最も重要な本質的な検討が、なにかよく分からない、川島武宜に言わせれば秘伝奥義的技術であるかのように演じられている。

その意味で、今や、我々はこの価値判断の作用をヌエ的な秘伝奥義的技術とせずに、その正体を白日の下にさらし、この作用について舞台上で堂々と議論すべきである。
そのとき、次のことが異論なく承認されると思う。すなわち、
もし法的三段論法が当初予定していた事実とは異質な、新たな事実が出現したあかつきには、もはや、それまでの「価値判断」は無条件に維持できず、改めて、どのような「価値判断」が採用されるべきか、そして、採用される「価値判断」に照らし、大前提を構成する要件事実はどのような組み合わせが妥当であるのか(法律的に言えば、「法の改正」もしくは「法の再解釈」)について吟味検討する必要がある。

最後にもう一度くり返すと、法的三段論法によれば、その当初、予定していたのとは異質な、新たな具体的な事実が出現したあかつきには、もはや従来の大前提が使える保証は失われ、そこで、新たな具体的な事実を当てはめるに相応しい「新たな大前提」を準備しなくてはならなくなる。だが、その「新たな具体的な事実(小前提)」と「新たな大前提」をつなぐ論理的な「架け橋」は存在しない。なぜなら、その「架け橋」は結局のところ「価値判断」によって架けるしかないものだから。つまり、三段論法にならって論理的に組み立てられたはずの法的三段論法はここで、つまり小前提を大前提に当てはめる場面(法律的に言えば、「法の適用」の場面)において、非論理的な、価値判断に関する困難な課題に直面する。

そこで、これを論理的に解くことは不可能だとしても、なお、「事実(小前提)」と「規範(大前提)」をつなぐ架け橋を、かつての法律のような法律制定者の主観、恣意を排除して(※3)、出来る限り客観的に成し遂げるための何か解き方(処方箋)はないのだろうか。

※3)これまで、法律家や判例は、この課題を「総合判断(評価)」と称してきた。だが、これがそのまま裸のままでは、判断者の好きな通りに、自分の判断を「総合判断」と称して、押し付けることができる。「総合判断」では主観的、恣意的判断の隠れ蓑になる。
いま、そうした主観的、恣意的判断を排除するための解き方が求められている。

その手掛かりはある。尤も、この処方箋は法的三段論法の構造の中には書かれていない(※4)。しかし、この価値判断の客観化への道は、価値判断(善悪)の探求の中から見つけ出すことはなお可能なのだ。

その探求は別文で。

※4)かといって、《我々は「事実」と「規範」はどのように繋がれるのかという永遠の難問に独力で立ち向かうしかない》などと嘆く必要もない。その前にまだやれることがある。

2025年2月15日土曜日

【つぶやき4】「ずっと躓きっぱなしだった統計学の原因が判明した気がした 」 (24.10.16)

 この秋に、自分自身の中で判然と分かったことの1つが、
これまで奮闘努力してきたにもかかわらず、ずっと躓きっぱなしだった統計学の躓きの原因が判明したこと
です。それは、養老孟司が「AI支配でヒトは死ぬ」の中で、
「理解」することと「解釈」することの違い
について論じているのを読み、その通りだと思ったからです。
ここで、彼は、この2つの違いについて、
「解釈」するとは、人間の脳が自然世界に働きかけてあれこれ世界を再構成すること、その行き着く先が、AIのように、自然世界を脳化社会に置き換えてしまうこと。これに対し、
「理解」するとは、向こうからやってくるんだ、「分かった!」って。「理解」とは分かろうとして分かるものじゃなくて、いつの間にか、分かっている。いわば、ヒトが自然世界に寄り添い、付き合っているうちに自然と自然の声、ことわりが自然のほうからやってくる。
だから、「解釈」も「理解」も一見、似たような作用、機能のようだけれど、本質的に異質なもの。例えば「解釈」では、整合性が取れていることが重視され、整合性が取れていれば、一応、まともな「解釈」として評価がくだされる。しかし、いくら整合性がとれていようとも、自然(身体)からは「それはちがう!」という異論が飛び出す。これが「理解」のこと。
つまり、「理解」と「解釈」は折り合わない。
       ↑
これは、マルクスがフォイエルバッハのテーゼの中で、
哲学者はこれまで世界を「解釈」してきただけだ。必要なことは、世界を「変革」することである、
を思い出させるのですが、私にとって、マルクスのこのテーゼは次のように理解されます。
哲学者はこれまで世界を脳の中であれこれ「解釈」してきただけだ。必要なことは、世界を「理解」することである、そのために「実践=世界と交わらなければならない」。
       ↑
このように考えたとき、これまで統計学(20世紀の推測統計学)をいくら勉強しても、その時には分かった気になっても時間が経つと、綺麗さっぱり抜けてしまい、ちっとも理解が身に付かない経験を繰り返してきた、その理由が分かったような気がしたのです。
つまり、統計学はこれまで、自然世界からデータを取って、そのデータをあれこれといじくり回して「解釈」してきただけで、自然世界を「理解」してきた訳ではない。しかもその「解釈」は高度の論理的、思考的なテクニックの積み重ねの上に築かれたもので、論理的首尾一貫性に貫かれているものの、それ以上、現実的な裏付け、対応関係が取られているわけではない。
       ↑
いわば、高度の「脳的な論理的整合性」の上に築かれた統計的処理を全身全霊で「分かった!」という理解に達することはあり得ない。それはあくまでも論理という堅固な理屈の石垣の上に築かれた観念上の城にすぎないものだから、そんなものに「理解」「納得」という身体の感情が沸きあがってくるはずがない。
つまり、現代の統計学に「理解」「納得」がいかないのは、決して知能が足りないからではなく、純粋な論理性だけで築かれた世界に対する根本的な違和感に由来するもので、むしろ自然なことであり、むしろ現代の統計学に「理解」「納得」が行くという人は、よほど観念的世界に対する親和性が高い生来の観念論者だからだと思う。そんな人間はヘーゲルとかごく一握りの少数者だ。

そのからみで、昨年2月に、井戸さんの「(疫学(統計学)を理解するためには、疫学の教科書を3回読まなくては」という発言に「それはちょっとちがうんじゃない?」という以下のコメントを書いたことを思い出しました。
その時の私の積極的な見解は、
「疫学(統計学)を理解するためには、疫学(統計学)の肝を掴むことが不可欠だ」
というものでした。しかし、今はそれもまた「ちがうんじゃないか?」と思っています。理由は前述した通りで、そもそもと疫学(統計学)とは世界を「解釈」しただけのもので、自然世界を反映した「理解」を述べたものではないから、そのような観念的世界の構築物をいくら読解しても「理解」「納得」に至ることがないのがむしろ当然、自然だからです。

つまり、現代の統計学は自然世界との対応関係が離れすぎ、頭の脳の中だけで整合性の取れた観念的構築物に作っただけのものに堕している。
そのような脳化世界に対して、自然世界から「分からない!」という違和感が表明されるのはむしろ素直なことだ、と。
      ↑
これに対し、津田さんや濱岡さんがどうリアクションを示すか、興味津々です。
(陳腐な政治的用語を使えば、かつての統計偏重の左翼日和見主義から、今度は統計軽視の右翼日和見主義に転向したと批判されそうです)    

-------- Forwarded Message --------
Subject: [2019maxlaw:3190] つぶやき:なぜ統計学(疫学)が理解できないか?それは科学哲学(帰納法)が理解できていないから。
Date: Wed, 8 Feb 2023 00:56:34 +0900
From: TOshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
 
柳原です。

今日の弁護団会議で、井戸さんから「疫学(統計学)の教科書を3回読まなくては」という言葉が発せられ、それをめぐってひとしきり喋りました。

そのことが妙に引っかかって、これはどうもちがうんじゃないか、つまり3回読んでも理解できないんじゃないか。百回読んでも同じだろう、という気がしてきました。理由は疫学(統計学)が理解できないのは、疫学(統計学)の肝をつかんでいないからで、肝を掴まない限り、いっぱいいろんな情報を仕込んでも、その時はなにか分かった気になるだけで、結局、時間が経つと、元の木阿弥、ボーとするだけ(←かく申す私がそうだからです)。

で、その肝って何か?と考えていて、過去の自分の投稿を読み返して気がついたことは、
疫学(統計学)の肝はエンデの「はてしない物語」の肝と同じではないか、と。
つまり、
エンデの「はてしない物語」の肝は主人公が現実世界とファンタジーの世界とを行き来する物語ですが、これと同様のことを疫学(統計学)でもやっていて、その肝さえ掴めば、疫学(統計学)の物語は自分でもつむぐことができる。

疫学(統計学)の現実世界というのは、調査や実験によって得られた情報(観測地)で、そのデータをもとに度数分布とか平均、偏差値などを求めます。これらの作業はすべて現実世界の中での出来事です。
しかし、疫学(統計学)は或る時点で、この現実世界からファンタジーの世界にワープします。それが「度数分布」から「標本分布」を導き出す時です。ここで、私たちは現実世界からおさらばして、ファンタジーの世界に跳躍するのですが、この跳躍という飛び越えは放射能と同様、「目に見えず、触ることもできず、臭いも痛みもない」ため、ボーとしていると、世界の次元が跳躍したことに気がつかない。その結果、今までと同様、現実世界の中にいるものとばかり思って、その延長線上で思考を継続して行くと、それまでの現実世界に適合した思考方法ではちっとも理解できない未知の思考に出会い、そこで、戸惑い、混乱し、ついに、その未知の思考は自分には理解不可能だと、そこで、疫学(統計学)の学びを断念してしまうか、或いはその時、なにげに分かった気になっていたけれど、時間が経つと、このファンタジーの世界の思考方法が何だったのか、現実世界の思考にどっぷり漬かってしまっている頭では到底理解できないと悟らされます。
これが、疫学(統計学)の学びで躓く最大の理由ではないかと思うのです。

それで、疫学(統計学)におけるファンタジーの世界というのは、定義や公理から論理的な証明によって様々な命題を導き出す数学的世界のことです。具体的にな(古典的ではなく)現代の確率論の世界です。

つまり、疫学(統計学)は現実世界からスタートして「度数分布」などを作成し、そこで経験世界からおさらばして、「確率分布」である「標本分布」の数学的世界にワープします。そこで、確率論の公理(大数の法則や中心極限定理など)を駆使して、仮説検定や区間推定の舞台を引き出します。そうして、最後に再び、現実世界に戻ってきて、現実のデータを仮説検定や区間推定の舞台と照合して、最終的な結論(仮説を棄却するとか95%信頼区間の値とか)を導きます。

以上の序破急という3つの展開を通じて、つまり現実世界→数学的世界へのワープ、再び、数学的世界→現実世界への回帰という跳躍を経て求めるエンディングが得られるというのが、疫学(統計学)のストーリー。
私は、ここの序破急という3つの展開の質的転換のイメージが持てないと、百回、教科書を読んでも、永遠に理解できないんじゃないと思ったんです。

でも、現実世界→数学的世界へのワープって、イギリスの伝統的な思考方法である経験主義(帰納法)と同じやり方で、特別な方法ではありません。
現代の統計学を作ったフィッシャーはイギリス人だから、彼にとって、この思考方法は極めて自然だった。

さらに、実は、法律家はいつも帰納法で仕事をしている連中です。だって、法律家が相手にするのも現実世界の紛争の事実と観念的世界の法規範の両方で、経験世界で発生した紛争という事実を、観念的な世界の法規範に当てはめて、法規範の中であれこれ操作して結論を引き出して、紛争解決とする、現実→観念→現実という序破急という3つの展開を日々やっているからです。ただ、それを自覚せずにやってしまっているために、疫学(統計学)でも同じことをやっているんだと気がつけないでいる、と。

以上、備忘録のためのつぶやきでした。

【つぶやき3】「ずっと偏愛してきた数学が脳化社会の最大の推進者だった」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の中で最もショックだったことは、
数学こそ脳化社会を推進した最大のツールだった
ことを知ったことです。それも養老孟司の指摘でした(しかも2003年の「バカの壁」に書いてあったのに、私の「バカの壁」のせいで理解できなかった)。

私の数学に対する偏愛は、ブルーカラーという自分自身の出自に由来します。貧困からの脱出は学力しかなく、その学力のうち最も確実なのは、証明さえできればどんな考えの人からも受け入れられる数学だと直感したからです。

しかし、その数学の確実性こそが脳化社会を推進する最大の武器になったのだと、養老孟司は言います(以下)。

脳化社会は人々にものごとを了解させようと了解事項を拡大させてきたが、その了解には共通了解と強制了解の2つがある。強制了解は有無を言わせず了解させること。数学は、証明によって強制的に「これが正しい」と認めさせられる論理であり、「強制了解」の典型である。その行き着く先がAI。

AIが世界を覆いつくすということは、意識(論理)の世界が自然の世界と置き換わるということ。その結果、自然(身体)としてのヒトの調子が狂ってくる。ジレンマを抱えたヒトは、最悪の場合、AI(論理)の命ずるままに受け入れるだけで、自らモノを考え、動くことを放棄し、死んだも同然の状態に陥る(養老孟司「AI支配でヒトは死ぬ」)。

この裁判も上に述べた危惧を一層感じるようになりました。東電の100mSv論がその典型ですが、データと統計だけで被ばくと甲状腺がんの因果関係を判断していいんだという発想そのものが、AI(論理)の命ずるままに受け入れるだけで、自然(身体)と向き合い、自らモノを考えることを放棄し、死んだも同然(思考停止)の状態に陥っているからです。

子ども脱被ばく裁判の中で、LNTモデル仮説論争に関する書面を書いたとき、ポパーの「反証可能性」論で反論したのですが、この準備の中で、物理、化学などではこの「反証可能」論が妥当するけれど、ひとり数学だけはこれが通用しないんじゃないかと気がついて、ちょっと焦りました。その時には、数学は論証科学だとすれば、物理などは実験科学であって、両者は別の種類の科学なんだと考えて、「反証可能」論は実験科学のみに妥当すると考えるしかないことに思い当たりました。
つまり、数学は自然世界に関する科学ではなく、論理の世界の科学だということです。この数学の特殊な位置に気がついたとき、もし養老孟司の「脳化社会」論を知っていたら、数学こそ脳化社会の推進者だったことにも気づいたはずでした(当時作成した「科学的な証明」をめぐる整理の表を添付します)。

その自然世界と切り離された論理の世界の数学が侵入して作られたのが現代統計学です。そこでは、数学の確率論が大幅に導入され、古典統計学が一新されたからです。その結果、自然世界と強い対応関係を保っていた古典統計学ではなく、自然世界との対応関係が危うい確率論をベースにした現代統計学が今日のデータ処理の基本になったのです。

なぜ現代統計学が威力を発揮したか。それは論理という手段をフルに活用して結論を引き出せたからで、言い換えれば、自然世界との対応関係が危うい確率論をベースにしたからで、それは反面、現実の自然世界とどれくらい正確に対応しているのか、そこがどんどん危うくなっていく。それを承知で、検討委員会などは自分の都合のいい結論を現代統計学を大義名分にして引き出しています。
我々はそれに対し、単に「それは現代統計学の使い方を間違えている」とだけで反論しては足りないんじゃないか。それが今の問題意識です。

話があちこち飛びましたが、数学に対する見方がコペルニクス的転回を遂げざるを得なかった自分の体験を語りました。

【つぶやき2】続き:「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の世界観が最も変わったことの1つが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)です。これを単なる大げさ、飾り文句ではなく、文字通り、受け取るのが正しいのだと思うようになったことです。、これを指摘した養老孟司は例えば以下のように言っています(昔の本と比べ、いまひとつ切れ味が悪いですが)。

世界の見方
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

ヒトは世界+(自然の世界)から刺激を五感で受け取って、そこから先は世界-(脳化の世界)に入る。まぶしいとか、うるさいとか、暑いとか、硬いとか言う。でも世界+の実体は不明である。カント風に言えば、物自体を知ることはできない

世界+(自然の世界)は真っ暗闇である。そこから少しずつ「事実」を拾ってくる。拾われた事実(情報)がある程度豊かになると、様々な概念が生じ、ヒトは自分なりの世界像を創る。
      ↑
この自然世界は「真っ暗闇」であることを思い知らされたのは、先端科学の「素粒子論」を知った時です。以下の動画を見て、物質の世界の真相は「真っ暗闇」じゃん、我々は本当にその一部分だけ、かすかに知っただけにとどまるじゃん、と実感しました。

神の数式 完全版 第2回「“重さ”はどこから生まれるのか~自発的対称性の破れ」
https://www.dailymotion.com/video/x8md0ne
     ↑
ここに登場するのですが、それまで電子はどれも一様に回転し、磁石のような性質を持っていたことが分かっていた。ところで、1957年に、その回転に右巻きと左巻きと2種類の回転があって、その性質がちがうことが分かった。
     ↑
ここから、電子をどれもみんな同じ構造、同じ動作、同じ性質を持っているなんてどこにも断言できず、電子にも「多様性」があって、それぞれ異なる側面がある可能性のほうがリアルになってきた。
     ↑
かつて、子ども脱被ばく裁判で、ポパーが、科学的真理とは「反証可能性」を前提とした暫定的な真理=仮説にとどまると主張したことを取り上げ、LNTモデルを仮説だとして馬鹿にした国に噛み付いた書面を出しましたが、
https://darkagejapan.blogspot.com/2019/02/blog-post_12.html

これは自然の世界は「真っ暗闇」である、ということを言い換えたものです。人間がこしらえた人工的な世界(科学的知見)がいつも自然界の一部を照らす部分的な真理でしかなく、自然界の全体からはいつもこれと矛盾する事態が起きるからです。
例えば、放射能でもα線、β線、γ線の被ばくを被ばく線量で評価しますが、果して、電子でも右巻きと左巻きの異なるものがあるように、同じβ線でも、右巻きと左巻きの異なるものがあるかもしれないし、それ以外にも、異なる構造、異なる動作、異なる性質を持っているかもしれない。単に、我々の認識能力不足で、それらのちがいを見出せずにいる可能性が大きい。その結果、それらの違いが、同じ被ばくをしても、相手の人体への影響が異なってくる可能性が当然あります。それを単純に、被ばく線量だけで健康評価しているのは、ものすごい荒っぽい、雑な見方ではないかと思えるのです。

そもそも、一口に放射線といっても、α線は陽子2個と中性子2個からなるヘリウム原子核なのに対し、β線は原子核から飛び出した電子でしょう。さらに、γ線は原子核から発生する電磁波と言われます。どうして、こんなに構造も性質も異なるものが放射線としてひとつに括られるのか、それが不思議でなりません。それは、放射能をα線、β線、γ線として外形的、表面的にしか把握しておらず、これらの3つに共通する本質(電子を吹き飛ばす電離作用)に即して放射能をまだ捉えてないんだと、放射線科学の未完成ぶり、未熟さを痛感するのです。

それは、長い間、あれだけ内部被ばくの危険性を認識していながら、いまだに、その危険性にふさわしい定量化の表現つまり内部被ばくの単位を見つけていないことにも、放射線科学の未完成ぶり、未熟さを痛感するのです。

それらの放射線科学の未完成ぶり、未熟さのため、「被ばくの健康影響」に対する認識能力も極めて未熟にとどまっていると痛感せざるを得ません。

数年前に、因果関係の科学的解明のツールとして統計学にその可能性を期待し、取り組みましたが、まだ探求途上とはいえ、この間の検討で感じたことは、どんなにテクニカルな現代統計学を使っても、それで解明できるのはあくまでもデータ同士の「相関関係」にとどまることで(原因確率論もみんなそうです)、それ以上「因果関係」に踏み込むことはできない。科学として、「因果関係」の手前でとどまるのが統計学の本質的宿命(限界)だということです。
     ↑
その意味で、科学として「因果関係」に寄与できることは限られている。そこで、法的に「因果関係」を問うときに重要になるのが、「真っ暗闇」に見える自然世界の中に厳然として存在する「事実」です。それが病態論。というより、そのような視点で病態論を再発見する必要がある。
そういう目で意識(科学的知見)と自然(病態論)の関係を捉え直したとき、はからずも、原爆症認定訴訟の中で、過去の判例が原因確率論のような科学的知見を決め手とせずに、それに加えて病態論をも加味して、総合的に、法的な因果関係を判断してきたことに、改めて、深い智慧を見るような発見がありました。

この意味で、私は、この裁判が始まった最初の夏合宿でやった原爆症認定訴訟の因果関係論に、深い洞察力が込められていることに驚嘆している次第です(まだ、ちゃんと復習していないのですが)。

まとまりのない駄文で、失礼しました。

【つぶやき1】「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の世界観が最も変わったことの1つが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)です。そう指摘したのは養老孟司です。

その結果、被ばくと甲状腺がん発症の「(事実的な)因果関係」もまた、脳化社会の外側にある自然世界の出来事であり、それは我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識です。
これに対し、これまで自分なりに、脳化社会の構成要素である言葉・数字・データ・論理(統計学)を使って自然世界の出来事である「(事実的な)因果関係」を解明しようとしてきましたが、そこで「科学的知見である統計学を正しく駆使すれば、(事実的な)因果関係も解明可能であるという信念(正確には信仰)でやってきましたが、しかし、そこには根本的な思い違いがあり、それは言葉・数字・データ・論理(統計学)は「真っ暗闇」をかすかに照らす手がかりにとどまる、という認識の見直しです。

なぜ、この見直しが必要かというと、現代社会は脳化が暴走し、脳化社会を構成する要素である意識(言葉・数字・データ・論理)でもって、自然世界を置き換えていいんだというところまで考えるようになり、意識(言葉・数字・データ・論理)が自然世界(現実)に置き換わってしまった。
その結果、言葉・数字・データ・論理でもって整合性をもった説明さえできればそれを現実とみなしてよい、と思い込むようになった。
その結果、現実は言葉・数字・データ・論理によってどんどん貧しくなり、どんどんやせ細っていき、言葉・数字・データ・論理だけのAI的な世界になっていった。「セクハラ」といった決めセリフや呪いの言葉の応酬が日常化した。
     ↑
これに最も反発、反逆、反動したのが自然としてのヒトの身体です。
私には、311の数年後、3歳で東京から長野県松川町に移住した孫がいるんですが、彼は小1からバリバリの不登校児で、お昼に給食だけ食べに行くという動物的な孫を見ていて、彼が引きこもりなのはギスギスした息苦しい脳化社会に対する身体の素直な反応で、むしろまっとうなんじゃないかと思うようになりました。
この「脳化社会に猛反発、反逆、反動する身体」の深刻な現象については自死、鬱、いじめ、引きこもり、様々な「‥‥ハラ」現象から、腰痛、アトピー、不眠など様々な健康障害まで、今日の至る所に蜘蛛の巣のように切れ目なく発生していて、いわゆる生命、身体、健康に対する最大の加害者は、一握りの悪徳業者とかではなく、我々が築いた脳化社会自体だと断言していいんだと思うようになりました。

そこからどうこの脳化社会の暴走に立ち向かうのか、という課題が私にとって最大のテーマになっています。それは過去最大級の途方もない、大きなテーマで、一瞬、気が遠くなるのですが、他方で、以下に書きました、病態論の位置づけの再構成というふうに、現実の問題である甲状腺がん裁判そのものの取り組みにももろ影響する課題です。

なので、そのためにも、もう一度、
脳化社会の外側にある自然世界は我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識について、
リアルな実感を抱くようになったいきさつについて、長くなったので、別便で書きます。

2024年7月24日水曜日

【実践3】13年にいっぺんしかないような瞬間ーー避難者追出し裁判で、本日初めて、国際人権法の論点が本格的に審理のまな板に乗った

本日(2024年7月22日)、東京地裁で、避難者の住宅追出し裁判があった。
311以来13年間、福島関係の裁判をやってきて、これまでずっと連戦連敗の日々だった。その中にあって、本日はこれほどまでに鮮やかな、これほど内容の濃い期日はなかった()。

なので、13年ゼミではないけれど、以下に、そのセミの鳴き声みたいに、13年にいっぺんの感想を一気に書いた。それはなぜ、こうした転換に至ったのか、その理由を探求するために。そして、次に鳴く(報告する)のが13年後にならないようにするために。


)それは、こちらが作成した争点整理案にのっとって本格的検討に入ることを宣言したもので、その結果、国際人権法を徹底的に審理するという内容になっている。 

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本日22日14時から、東京地裁の大法廷で、住まいの権利裁判の第10回目の弁論を実施しました。
この裁判、提訴が2022年3月11日、第1回弁論よりより2年が経過、2年前に先行して福島地裁に提訴された避難者追出し裁判が第1回弁論(2021.5.14)から1年2ヶ月で審理打切りを裁判所が通告したような強引、乱暴な訴訟指揮はしてきませんでした。

しかし、この裁判の肝心のメインテーマ「国際人権法と県知事決定の裁量権の逸脱」については、この間、「敬して遠ざける」という態度で全く検討に入らず、他方で、その罪滅ぼしのように、付随的な主張(「復興公営住宅」の避難先での建設のサボタージュ。親族に原告の立退きを求める。プライバシーの侵害)に滅茶苦茶深掘りして争点整理に励むという姿勢でした。
この人間的個性(大きな人権問題から目を背け、小さな人権問題に目を向ける)が色濃く反映した訴訟指揮を正常化させなくてはと、
今年2月に、裁判所に、この裁判から逃げないで、一歩前に出て、積極的な審理をすることを求めるラブレターみたいな書面を提出。
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/2024/03/24318.html

そしたら、はからずも裁判長は「原告の言いたいことは理解した積りだ」と前向きに受け止める発言。一瞬、大きな期待を抱かせたものの、しかし具体的な取組みはその次の期日(前回の5月)でも全く変わらず、ガッカリさせてくれました。それで、業を煮やした私は、前回の期日直後の非公開の進行協議の場で、上のメインテーマについて「争点整理案をこちらで作りましょうか」と半ば嫌味、ヤケクソで振ったら、裁判長はニコリと「じゃあ、お願いします」とあっさり振られてしまいました。

しかし、「言うは易き、行い難し」で、そのあと、上のメインテーマについて「争点整理案」を作成しようとしたのですが、ぜんぜんはかどらない。実は、
先行した福島地裁の追出し裁判でも同じく争点整理案をめぐって裁判所と激論になったのですが、そのとき、準備したものが不発で、それ以来、正直、争点整理案に自信を無くしていました・・・そうこうしているうちに、どんどん時間が経ち、〆切が迫る中で、尻に火がついて、以下の文から書面を書き起こしたら、ようやく、自分の悩みが解けました。

率直に言って、本件は争点整理がすこぶる難しい。一筋縄ではいかず、立ち往生しまいそうになる。これは裁判所も争いのないところだと思う。ところで、翻ってなぜ争点整理がかくも困難なのか。それは決して偶然ではない。そこには本件に特有の本質的な法律問題が潜んでいるからである。すなわち、本件の「争点整理の困難性」は本件に特有の本質的な法律問題に由来するものであり、この点の正しい認識から、初めて本件に相応しい争点整理への途が開ける。そこで、ここから本件の争点整理を始めたい。
このように問題を立て、それを追及して行ったら、そこから答えが見えてきました。そのまま引用すると以下です。

本件の争点整理が一筋縄ではいかず、困難なのは本件の紛争が既存の法律体系の枠組みに収まらず、そこから大きくはみ出した紛争だからである。これまでの訴訟で我々が通常おこなって来た争点整理とは、実は当該紛争が既存の法律体系の枠組みに収まるものであることを大前提にして、その上で「既存の法律体系の枠組みの中で要件事実を取り出し、かつそれらを両当事者に分配し、その整理に基いて具体的な紛争事実を当てはめる」ものであった。だとすれば、新たに発生した紛争が既存の法律体系の枠組みに収まらず、そこからはみ出した場合にはもはや上記の争点整理の方法がそのまま使えなくなるのは当然のことであった。その典型が、既存の法律体系が当該紛争を予想しておらず、当該紛争に対して法律から具体的な判断基準が直接引き出せない場合すなわち「法の欠缺」状態が発生した場合である。しかも本件では、この「法の欠缺」状態が全面的、顕著に発生した。

換言すれば、本件で争点整理が一筋縄ではいかず、困難なのは「法の欠缺」状態が発生しているからである。


ここに至った時、私は初めて、「法の欠缺」という問題は法の体系のみならず、裁判手続の全体まで根底から揺るがす一大事件なのだということを思い知らされたのです。つまり、「法の欠缺」問題は実体法ばかりか裁判の手続法まで、その基本問題の枠組みをすべて塗り替えるような一大事件なのだという自覚が必要なことを教えられました。2年前の追出し裁判の時には、まだこの自覚ができなかったため、争点整理も未消化、不発で終わってしまったことに気がつきました。
もともと、裁判のクライマックスは争点整理とそれに基づく証拠調べの2大柱です。
ですが、「法の欠缺」問題がこの2大柱にどう影響し、どう関わるのかについて考えを押し及ぼさなかったため、裁判の中で「法の欠缺」問題を徹底的に論じ、取上げることが出来ませんでした。
しかし、今度は今回、この点(争点整理と「法の欠缺」の関係)の検討ができたので、これを裁判所にもぶつけて、勝負に出ることにした。それが準備書面(17)(>PDF)と争点整理案(>PDF)です。
いわば、「法の欠缺」が生じている場合の争点整理はいかに実施されるべきかという問題提起とその解決について、ひとつの仮説を提示したのが、この準備書面(17)と争点整理案です。なので、裁判所がこれらの書面をどう受け止めるかによって、この仮説をどう評価したかが分かる。それが本日の弁論だった。

そして、本日の弁論で、裁判長は、被告福島県に、原告作成の争点整理案のブランクの部分(被告の認否・反論とその理由)について書き込むようにと指示を出しました。ひとまず原告の争点整理を承認し、これを前提に争点整理を進めるという態度を表明したのです。

のみならず、前回期日に提出した、311以後の日本政府の原発事故の収拾に関する政策の集大成をした準備書面(14)についても、我々から次の求釈明を出していました。
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/2024/06/31114.html

もし、被告において、本書面(準備書面(14))で主張した事実のうち争うものがあるというのであれば、速やかにその部分を明示のうえ否認及びその理由(民訴法規則79条3項)を明らかにされたい。

そしたら、本日の弁論で、「裁判所もこれを知りたいと考えるので、福島県に、次回までに、この点を明らかにするように」と指示しました。
専門的な話になりますが、裁判手続では裁判の主題の判断にとって直接必要な事実については必ず相手に認否・反論をさせますが、裁判の主題の判断にとって背景となる事実についてはとくに認否はしなくてもよいと考えます。今回の準備書面(14)は副題として「本件住宅支援打切りの経緯及び背景事情」と書いているくらいですから、通常なら、相手は認否しなくてもよいとされます。事実、福島県は準備書面(14)を、なんだ、うるさい蝿野郎めくらいにしか考えず、無視、黙殺したのですが、そこに嚙み付いたのが、今回の求釈明書。そこでは、
一般論はともかく、本件の背景事情は訳がちがう。それは、
本裁判の主題である法的争点と密接不可分のいわばコインの表と裏の関係にあり、本訴の真相解明に基いて法的争点を的確に下す上でないがしろにできない重要な事実だ、と。しかも、
本書面で述べている事実はいずれも公表もしくは公開された媒体に記載された事実であって、基本的に被告にとっても異論がないものと原告らは理解している。
と追い込んで、だから、もし争うならそれを明らかにしろ、と。しないなら、それは争いがないものとして、今後の審理の基礎にするからな、と。
      ↑
そしたら、裁判所も、この考えに共鳴し、乗ってくれた。
これには福島県の代理人もビックリしたはず。準備書面(14)は311後の国の悪行の限りを尽くした政策が網羅されています。これを認めるのか否かを、否定するならその理由を示せと、まるで踏み絵みたいに明らかにしろと迫られた訳ですから。勘弁してよというのが代理人の心情だと思いますが、裁判長は、福島県に踏み絵を踏ませることにしました。

加えて、新たに予備的に主張を追加した準備書面(18)についても、裁判所から被告に認否反論をするように指示しました。
おまけが、個人情報の公開をめぐる論点で、県の書面に反論した準備書面(16)についても、あれだけ県に嚙み付いた書面を黙ってる訳にはいかないのを分かって、さり気なく、「もし反論があれば次回までにするように」と。 

以上のような裁判所の訴訟指揮を、福島県の代理人は予想していなかったらしく、裁判所の指示に対し、一言も釈明も反論もせず(できなかった)、あっさり手続が済んだ。

結局、今回初めて、裁判所は原告の求める訴訟展開を全て受け入れ、被告にそれに答えるように指示を出しました。
本日は、福島地裁の追出し裁判も含め、この3年間の中で最も充実した期日でした。
というより、311以後の13年間、いつも敗北の連続の中で、今日が、硬直した事態を突破する最も強烈な抵抗の日でした。
それ加えて、本日の原告Aさんの意見陳述がそれを象徴する、聞く者の心に飛び込む、本当に素晴らしいものでした(>意見陳述原稿)。
この間、原告Aさんの担当で、意見陳述の準備をしてきた井戸さんは、本日、新幹線不通のため出廷が適わず、私が井戸さんの代理人になってAさんの陳述を胸に刻んだのですが、返す返す無念だったろうと思います。

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[Che-supportmember:858] 【参考】避難者追出し裁判の最新書面:もし日本版があれば追出し裁判の争点整理は一発で解決

昨日(2024年7月16日)、東京地裁の避難者追出し裁判(通称、原発避難者住まいの権利裁判)で、書面6通を提出しました。
ちょうど今が、この裁判の折り返し点で、双方の主張がほぼ出揃って、主張整理(裁判では争点整理といいます)が煮詰まるとても重要な時点にさしかかっています。
しかし、にもかかわらず、肝心の争点整理がぜんぜん進まない、国際人権法の核心的論点に全く入ろうとしない。ただし、裁判所が決して避難者側を軽んじて、福島県よりの偏向した態度を取っている訳でもありません。そこで、この優柔不断の態度をどう打開したらよいものか、正直なところ、恐らく争点整理をどうしたらよいのか途方に暮れている裁判所と同じくらい、こちらも途方に暮れてしまいました。

そのような途方に暮れる日々の中から、何とか、打開策を探り当てたのが今回の書面です。
その打開の鍵は、チェルノブイリ法日本版でした。正確に言うと、チェルノブイリ法日本版の持つ意義にありました。

ブックレットにも書きましたが、少し専門的ですが、チェルノブイリ法日本版とは311後の原発事故の救済について日本の法体系が何も解決方法を制定していないという、恐るべき「法の穴(欠缺)」状態を穴埋め(補充)する立法的解決のことです。

そこから眺めると、現状は、日本の法体系が何も解決方法を制定していないままです。それなら、私たちは原発事故の救済を一切諦めなければならないのかというと、そうではありません。立法的解決の替わりに司法的解決の途がまだ残されています。先日の旧優生保護法の人権侵害に対し救済した最高裁の判決がそうです。
このような司法的解決をめざしているのが、避難者追出し裁判です。
ですから、この裁判とチェルノブイリ法日本版とは原発事故の真っ当な救済を実現するための両輪の輪です。
そのことを自覚していたので、この裁判の争点整理で行き詰った時、その打開策はチェルノブイリ法日本版にあると直観し、そこから打開の途を見出しました。
そのエッセンスを一言で言うと、
①.まず原発事故の救済についての「法の穴(欠缺)」状態を正しく穴埋め(補充)せよ、
②.その補充された法体系に沿って争点整理を行えば、適切な争点整理が実現される
というものです。

チェルノブイリ法日本版の画期性、視点を意識することによって、現状の様々な問題の本質がクリアになるという貴重な経験をしました。
以下は、その一部始終をつぶやきとして書き残したものです。合わせて昨日提出した争点整理の肝に関する準備書面と争点整理のモデル案を添付します。

住まいの権利裁判で、未知の争点整理に挑戦する書面を提出(直後のつぶやき)

【振り返り2】住まいの権利裁判の3人目の裁判長との内掘福島県知事の喚問をめぐるひそかな激闘(26.6.12)

 住まいの権利裁判の3人目の裁判長との間で闘わされた最大のテーマが誰を証人として尋問するか、具体的には内掘福島県知事を証人として尋問するかどうか、だった。 これまで、裁判所が往々にして行政に必要以上に忖度する傾向があることは司法の業界ではよく知られた悪弊(悪しき習慣以外の何物でも...