2025年10月30日木曜日

【法律学批判4】事実と規範をどうやってつなぐか:その問題は「法律は正義としていかなるときに力を持つか」に置き換えられる(25.10.30)

事実(存在)と規範(価値判断)をどうやってつなぐか?つまり、両者の架け橋をどこに見出すか?

この問題は、次のように置き換えられる。
法律は正義として、いかなるときに法律の力を持つか?
つまり、正義の力はどこにあるか?

1、この問題は、次の問題とつながっている。それは、
事実(真実)の力はどこにあるか?
それはひとつは、事実が真実であると人々に受け入れられたとき。
もうひとつは、事実が正義の構成要素となったとき(言い換えると、正義の中に埋め込まれたとき)。

そのビジョンは国際人権法の中に見出すことができる。国内避難民は人間であり、人間として扱われなくてはならない。では、果して、311以来、現実に、事実として、人間として扱われてきたか。人間として扱われてこなかったのではないか。そのような力を持った事実はまず「人権侵害」というネガティブな事実なのではないか。

2、他方で、正義の力は、通常の法的論理の中にはない。
通常の法的論理とは、所詮、正当化の論理だから‥‥
But! ひとつだけ例外がある。
それがソクラテスの問答。
彼は、法的論理の中で、法的論理自身の欺瞞・矛盾を暴いてみせた(証明した)。
つまり、そこから法的論理の前提・基礎の不確実性・欺瞞を明らかにした。
これもまた、ポジティブではないが、ネガティブな力(人を途方に暮れさせる)を人々にもたらした

【法律学批判○】太田勝造「社会科学の理論とモデル 7法律」への感想(25.10.30)

 これは、太田勝造「社会科学の理論とモデル 7法律」の「はじめに」を読んだ感想。
1、彼は、その2頁目ラストでこう書いている。

本書は、社会科学の理論とモデルの一部を法律の分野に適用しようとする試みである。

この1行を読んだ瞬間、彼は法律のことを間違って理解している、つまり、そもそも社会科学の理論とモデルを法律に適用しようという試み自体が間違っていると思った。
なぜなら、法律はもともと社会科学の対象ではなく、精々、法律の中の一分野である事実論のみが社会科学の対象となり得るにすぎず、法律の本領・本命である法律論は宗教学・倫理学・論理学の対象となり得ても、社会科学の対象ではないから。

私の上記の理由は社会科学における任務を、自然科学と同様、もっぱら「事実」の究明・解明にあると考え、「価値判断」の究明・解明を主要な任務とする政策、倫理、法律、宗教とは一線を画すると考えるから、つまり「事実判断と価値判断の峻別」という立場に立つからである。

ところが、太田は法律もまた社会科学の一分野だと考え、ゆえに、社会科学の理論とモデルを法律に適用するのは可能であると考え、それに挑戦した。しかし、それが挫折するのは必然であった。「価値判断」の究明・解明を主要な任務とする法律に、「事実」の究明・解明を任務とする社会科学の理論やモデルがうまく使えないのはことの性質上、当然だから。

2、しかし、法律と社会科学の次元の異なるちがいに気がつかないのか、太田は、己の挫折の理由を理解せず、むしろ挫折した矛先を法律の非科学的な性格に振り向け、こう言うーー法律学の議論は、カルトの教義と区別がつかないように思われるかもしれない。法律学における「理論」とは、仮説を構築し、検証・反証に曝すための理論ではなく、とりたてて根拠があるとは限らないようなドグマ(教義)の「体系」であり、これを信じて他者に対して使えるようになることが法律学を身につけることである。‥‥(はじめに3頁)

彼は法律の理論が科学の方法論である「仮説を構築し、検証・反証に曝す」こととは無縁の、唯我独尊的なドグマ(教義)であると批判するが、これは科学の方法論である「反証可能性」の理論こそ絶対の正しいものであるという立場からこの理論を採らない法律を断罪するものである。しかし、前述した通り、もっぱら「事実」の究明・解明を任務とする科学は、「価値判断」の究明・解明を主な任務とする法律学とはその性格が水と油ほどちがい、従って、両者の方法論もまた 水と油ほどかは別にして、ちがって来るのはむしろ必然である。もし法律の理論を批判するのであれば、まず、「価値判断」の究明・解明を主な任務とする法律学においても、その理論は科学と同様、「仮説を構築し、検証・反証に曝す」という方法論が適用されるべきであることを証明してから、そののちに上記の批判をすべきである。その証明もしないで、無条件に科学の方法論を取らないのはおかしいと批判するのはそのやり方こそ唯我独尊的でドグマティックだと言われても仕方ない。

3、かつて、大学院生時代に、証明論で画期的な論文を発表した彼は、その論文が法律の中の「事実」論の分野の一テーマだったせいもあり、爾後、彼の中では「事実」論がたえず大きな関心事だったにちがいない。しかし、前述した通り、法律学の本領・本命は「価値判断をエッセンスとする法律論」にある。そこでは、事実の証明といった、社会科学と同一レベルで議論が可能とは限らず、むしろ事実とは異次元の、規範(価値判断)の究明・解明という次元で独自の議論を展開する必要が大であった。その意味で、法律の世界とくに事実論の分野では、社会科学の理論・モデルをベース(基礎)に置きながら(※1)、そこから飛び立って、社会科学にはない、法律に独自の課題「規範(価値判断)の究明・解明」に向けて、新たな、独自の理論・モデルを構築するという困難な課題を抱えていることに目覚めるべきだった。そして、そのことを曲りなりに、やろうとしたのが【法律学批判1】から【法律学批判○】。

※1)ちょうど、芸術作品などの著作権の分野で、著作物の評価という事実論においては、作品の構造分析などの芸術論の理論・モデルをベース(基礎)に置きながら、法律問題を解くことが著作物の現実を踏まえたリアルな法的評価を可能ならしめるとされるのとパラレルな関係にある。

4、もうひとつ、太田がやるべきだったのに、今までとうとうやらなかった(のではないかと思われる)ことがある。それは、ソクラテスの弁明。つまり、
彼は他の研究者には見られない鋭い視点があったのだから、その鋭い視点で、ドグマ(教義)の中に思考停止して安住する既成の法律家たちに対して、ソクラテスのように背理法を使った対話を試み、惰眠を貪る彼らのドグマを粉砕・破綻するのを見届ける問答を徹底してーーソクラテスが自ら、馬にまとわりつく虻みたいにアテネの市民に対話を仕掛けたようにーーやり遂げるべきだった。そして、一度は法曹界を覆っているドグマを粉砕しておくべきだった。その批判によるドグマ破壊活動を経た後に、(事実論の分野とはいえ)社会科学の理論・モデルを法律に応用して、新たな建設を行うべきだった。

しかし、この批判破壊活動をしないまま、いくら熱心に、新たな建設活動に取り組んでみても、保守本流の中で惰性・惰眠を貪るような法学者たちにとっては彼の提案は痛くもかゆくもない(なぜなら、自分たちが逃げ込むドグマは破壊されないでちゃんと残っているから)。だから、彼らはそのドグマにぬけぬけと安住したまま、彼の提案を単にさっさとスルーするだけであった(と思う)。

2025年10月29日水曜日

【法律学批判3】「規範の類型事実化」はいかなる問題に置き換えることができるか。(25.10.30)

【法律学批判2】で次の通り書いたーー数学を解くとは、問題を別の問題に次々と置き換えることであり、その置き換えを通じてついに問題が解けるようになる。その方法は数学に限らない。ここでも応用可能である。そう信じて、この「類型化」の問題をさらに別の問題に置き換えるべく挑戦することにする。

以下、その試み。

我妻栄は、民法90条の「公序良俗違反」の判断を類型化に求め、その類型化への道を次のように説いた。

一面、従来の判例及びこれに対する学者・社会一般の批評を仔細に観察、
多面、活眼を開いて、当代の社会思想と社会制度とを観察し、
もって、具体的な標準を誤まらないように努めるべしと。
その際、判例によれば、価値判断の標準が「個人の自由からその社会的影響」に推移しようとするものが多いことに注意すべきと
(民法講義Ⅰ〔306〕)。

しかし、これだけでは類型化の手掛かりの一端は掴めても、どうやって規範を類型的な事実に置き換えたのか、その秘密を解くことはできない。つまり、「規範の類型事実化」を別の問題に置き換えたことにはならない。

しかし、ここにはひとつだけ、重要な手掛かりがある。それは、
従来の判例の探求の重要性を説いていることだ。
なぜ、判例の探求が重要なのか。
そこには、生きた紛争の現場で使われている生成中の規範が存在するからだ。判例は紛争から自動的に生成されたものではない。判例を可能にしているのは、そこに、悪という理不尽な法律関係に対し、NO!という声をあげて訴訟を起こした弱者自身によるアクションがあったからだ。提訴という彼らの抵抗権の行使が(もちろん全てではないが)、これらの判例として実を結んでいるからだ。
その意味で、判例の探求と言うのは、「悪の法律関係に対する人民の抵抗権の行使」、その記録の探求なのだ。

つまり、提訴という市民の抵抗権の行使から、規範はより具体的な形を取る。それはどこからか。悪という事実からだ。市民はこ難しい道徳の観念については知らないかもしれないが、自分が身をもって全身全霊で体験している悪の関係については、「おかしい!許せない!」という絶対の感性を持っている。
つまり、規範は善と悪というコインの両面のうち、悪の面から眺めたとき、その正体が明白となる。
これに対し、今日、善と悪の区別は曖昧になった、相対化したとかグチャグチャ言われる。しかし、悪は悪の被害を受けた人たちにとっては曖昧でも相対化でもない、歴然とした明白な事実だ(人の頭を上から靴で踏んだ者にとって、それが何を意味するか分からないとしても、踏まれた人にとってその意味は明々白々である)。つまり、悪は何よりもまず、悪の被害を受けた者にとってどのようなものであるかという観点から評価されるべきもので、その時、悪は殆どの場合、明白な正体を現すであろう。

その結果、抵抗とは、悪の事実に対し、NO!という抵抗の叫びと行動のことを言う。この時、抵抗は(悪という)事実から規範に揚棄(羽化)する、最初の一歩となる。

以上から、「規範の類型事実化」とは、規範を被害者からみた悪に着目して、その悪の類型化ということになる。我妻栄の公序良俗違反の類型化も(「民法講義Ⅰ〔306〕)、よく観察すると、被害者からみた悪に着目して、その悪の類型化を試みたものであることが分かる。

その際、重要なことの1つは、悪をどの点で捉えるかである。悪を行使する側も(悪智慧が働く者であればあるほど)やたらめったら悪行を働くのではなく、必要最小限の悪しか使わない。そのため、悪に抵抗する側も、この点をよくわきまえる必要がある。いったい、悪者はどこに悪の必殺技を仕掛けたのか、その所在を突き止める必要があり、その必殺技に対して、こちらもそこで勝負に出て、これをひっくり返す抵抗に出るべきである。それが善の事実を否定した悪、その悪をさらに否定した抵抗の具体的アクションであり、それは「否定の否定」という止揚の勝負どころである。

【法律学批判2】法的三段論法の事実(小前提)と規範(大前提)を繋ぐ客観的な「架け橋」の探求その1「規範の類型事実化」(25.10.29)

 【法律学批判1】で次のことを述べた。
1、「事実(小前提)」と「規範(大前提)」をつなぐ架け橋は論理的には不可能である。なぜなら、それは論理とは異なる、判断者の価値判断に基づいて架けられる橋だから。
2、その上で、この架け橋が判断者の主観、恣意を排除し客観的なものにするために何が可能か、何をなすべきか。この「価値判断(規範)の客観化」が問われている。

「価値判断(規範)の客観化」はどうやったら解けるのか。
今、思い当たるのは次の2つ。
1つは、「規範の事実化」より正確にいうと「規範の類型事実化」。
もう1つは、ソクラテスの問答、一種の背理法により、判断者が採用する価値判断が破綻、矛盾に陥ることを示して、その価値判断を破棄させること。
       ↑
尤も、この2つは別々のものではなく、セットとして考えることができる。つまり、後者は誤った価値判断を消去する解き方であり、前者は正しい価値判断を建設する解き方だから。具体的には、既に世に受け入れられている価値判断を批判し、その克復の必要性を証明するためにソクラテスの問答が使われ、それが成し遂げられたあとは、新たな価値判断を導入するための方法として、前者が使われる。
順番に述べる。

1、「規範の事実化」とは何か。それは、もともと規範とは事実と無関係に、独自に存在するものではなく、事実の中から誕生し、育まれるもの。つまり、事実から生成するもの。生成法(1)とはそのことを指す。だとしたら、規範を(規範が誕生するもととなった)事実の組み合わせとして構成することは十分可能だ。その1つが、法律的に「類型化」と呼ばれる解き方。例えば、民法90条の「公序良俗違反」。この抽象的な規範は、そのままでは使い物にならず、法律家はその類型化に努めている。言い換えると、「類型化」とはより具体的な事実によって抽象的な規範を再構成し、もって、事実と規範をつなぐ架け橋を架ける解き方のこと。

1)生成法とは、民衆の間で流通(交換)している事実がやがて法的確信にまで高められ、その法的確信がじわじわと拡大する中で、或る時点でそれが法規範(慣習法)として誕生するという見方。

ただし、こう言ったからと言って、 事実と規範をつなぐ架け橋があたかも自動的に生成できるわけではない。そこでは、どうやったら「類型化」が可能になるのか、今度はその解き方が問題となる。つまり、問題の解き方が別のものに置き換わったのだ。数学を解くとは、問題を別の問題に次々と置き換えることであり、その置き換えを通じてついに問題が解けるようになる。その方法は数学に限らない。ここでも応用可能である。そう信じて、この「類型化」の問題をさらに別の問題に置き換えるべく挑戦することにする。

そこで、次の問題は「規範の類型事実化」はいかなる問題に置き換えることができるか。
これについては別文で。

2、ソクラテスの問答
ここでは、ソクラテスの問答がなぜ必要か、なぜ重要かについて述べる。
それは、法律の判断者は、往々にして、とりわけ保守的な価値観に従う者たちは、我々がいくら「新しい事実」に相応しい「新しい法規範」を訴えても、そしてその訴えに正面からは何一つ反論しなくても(実際はできないのだが)、だからといって、我々の訴えを採用する訳ではなく、「価値判断の相対性」の名の下に旧来の法規範にしがみついて、これを固守するという抜き難い性癖があるからだ。だから、このような人たちに対しては、あらかじめ、ソクラテスの問答によって、彼らがすがる旧来の法規範の破綻、矛盾を余すところなく明らかにして、彼らが旧来の法規範に逃げ込もうとする退路を断っておく必要がある。

【法律学批判1】法律を法的三段論法により再構成しようと企てた瞬間、論理的に永遠に解けない躓きとヌエ(似非・擬似)論理が誕生した(25.10.28)

 秘密投票は民主主義の最高の制度の1つとして根付いている。しかし、このノーベル賞級のアイデアを誰が思い付いたのか、誰も知らない。

これと同様、法的三段論法(1)は近代の法律の根本原理の1つとして根付いている。しかし、いったい誰がこのアイデアを思い付いたのか、誰も知らない。

1)「大前提」に「小前提」を当てはめて「結論」を導き出す思考方法。

ただ、 このアイデアは法的三段論法の名の通り、アリストテレスが整備したとされる三段論法を法律に応用したもの。ゆえに、このアイデアを思いついた人はアリストテレスの論理学を使って、法律の構造を首尾一貫した論理構造に仕立てて、もって、権力者による法律の主観的、恣意的運用を排除すること(「人の統治」の否定)を目指したのだと思う。それならば、このアイデアを最初に実行した人が13世紀のトマス・アクィナス。彼はアリストテレスの三段論法をキリスト教に応用した最初の人物として知られる。「宗教の論理化」--その偉大な成功に見習って、だったらこのアイデアは法律にも使えると、ひそかに思った人が法的三段論法の最初のアイデアマンではないかに思う。

その真相はともかく、ここで重要なことは、一方で、「法律の論理化」により、法律はそれまでの権力者による主観的、恣意的運用を排除して、機械的とも言うべき正確・厳密な運用が担保されることになった。これはこれでひとつの立派な「正義」だ。

しかし、同時に他方で、「法律の論理化」により、法律はそれまで三段論法が予定していなかった新たな困難をしょい込むことになった。それが2つの前提のうち、一方の大前提には規範(ゾレン=Sollen)、他方の小前提には(個々具体的な)事実(ザイン=Sein)という次元の異なる出来事を比べあって、そこから結論を引き出すことにしたから。それまで三段論法は、以下の伝統例の通り、

  • 大前提:全ての人間は死すべきものである。
  • 小前提:ソクラテスは人間である。
  • 結論:ゆえにソクラテスは死すべきものである。

の大前提と小前提はともに事実(存在)のレベル同士だった。違うのは大前提が普遍的な事実であるのに対し小前提は個々具体的な事実という程度の違い。ゆえに両者の比較はごく自然に行なわれる。

しかし、法的三段論法はそうはいかない。規範とはゾレン~すべきこと・当為)であって、価値判断によって結論に初めて到達できるのであって、価値判断を入れないザイン~であること・存在)とは水と油のように異なる。この次元の異なる、異質なもの同士の結婚(当てはめ)が自然に、すんなりと行くはずがなく、ギクシャクするのは必然だ。

すなわち、どんなに事実(存在)を積み重ねたとしても、そこから論理必然的に規範(当為)を導き出すことはできない。必ず、或る、何かしらの「すべきである」という価値判断を加えて初めて規範(当為)に到達できる。法的三段論法では、三段論法とちがって、この価値判断を加えることが「大前提に小前提を当てはめる」ときに、暗黙のうちに、ひそかに前提とされている。価値判断の暗黙の挿入というこんな事態は三段論法ではあり得ない。

例えば、婚姻が成立するための要件として、現憲法は24条で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とうたっている。これだけ読むと、両者の「結婚する」という合意の事実で、あたかも自動的に「婚姻の成立」が導かれるように思えるが、そうではないことが明治の民法と比べたら一目瞭然だ。旧民法は「家族が婚姻または養子縁組をなすには戸主の同意を得なければならない。」(750条)と定め、両性の合意だけでは婚姻は成立しなかったからだ。つまり、「婚姻の成立」という結論は事実の積み重ねだけで自動的に導かれるのではなく、それは「婚姻の成立」をいかなる場合に認めるべきかという価値判断によって決まった。家制度を最優先する価値判断のもとでは、婚姻は「両性の合意」だけでは足りず、「戸主の同意」が必須とされた。これに対し、個人の尊厳を最優先する価値判断のもとでは、婚姻は「両性の合意」だけあれば必要かつ十分であり、それ以上、家制度の拘束は不要とされた。つまり、法的三段論法の大前提を構成する要素(要件事実)が何であるか、それは価値判断に基づいて決定されたのであり、大前提を構成する要素として特定の要件事実の組み合わせが選ばれたとき(法律的に言うと「法の制定」もしくは「法の解釈」)、その組み合わせそのものの決定過程に、明確に、法律制定者の価値判断が反映されている。

言い換えれば、大前提の中身を決定する主役は価値判断である。にもかかわらず、法的三段論法では、主役の価値判断はいくら待っても表舞台に登場しない。つまり、姿を現して中身を直接に表明することをしない。表舞台に登場するのは要件事実の組み合わせである。この登場人物のおかげで、小前提の個々具体的な事実は大前提にスムーズに当てはめることができるというわけだ。その結果、こうした、主役の登場しない法的三段論法の舞台は人々に法的三段論法を秘伝奥義(※2)と思わせる根本的な原因となった。

※2法律が「普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』」(川島武宜「科学としての法律学」)のように不信がられる原因となった。

では、なぜ、このような主役の登場しないややこしい三段論法というやり方を採用したのか。思うに、一方で、異次元同士の「事実(ザイン)の規範(ゾレン)への当てはめ」は、素直に考えれば、本来の三段論法の(「事実(ザイン)同士の当てはめ」という)論理的枠組みから逸脱している。にもかかわらず、法的三段論法のアイデアマンは、そこで三段論法の法律への応用という企てを断念しなかった。さらに言えば、断念したくなかったのだと思う。そこで、本人はどうしたか。思うに、思案の末、ひとつの解決策を思いついた。それが、そのような逸脱の批判を浴びないようにすること、つまり別に逸脱していないように人々に思わせることである。そこで、価値判断に関する事柄を法的三段論法の構成要素から消し去った(隠蔽した)。つまり、実はものすごい重要な作用として価値判断を加えているのに、表向きは何も加えていないかのような構成に仕上げた。それが上記の「主役の登場しないややこしい三段論法」である。そのおかげで、法的三段論法はあたかも本来の三段論法の(「拡張」ではなく)単なる「延長」であるかのように人々に思い込ませることに成功した(ハッキリ言えば、人々を欺いた)。

再びくり返すと、この最も重要で、本質的な「価値判断を加えること」という作用は法的三段論法の大前提の中で明示的な構成要素とされていない。その代わり、大前提を構成するこれこれの要件事実を決定する過程で「価値判断を加えること」をひそかに実践することにして、いったん要件事実が決定されたあとは、法的三段論法の構成要素として価値判断の痕跡を一切ぬぐい去ったのである。だから、この価値判断という作用は要件事実の組み合わせの決定という果実の中に実を結んでいる。つまり、要件事実の決定過程で事実と価値判断が緊密に連携して要件事実の組み合わせの決定という実を結んだ。

ところで、 価値判断が「要件事実の組み合わせ」という形で結実化するということは、今までなかったような新しい事実が出現すれば、その出現に伴って新しい価値判断をもたらす可能性がある。その結果、その新しい価値判断に基づいて、改めて「要件事実の組み合わせ」を再考し、新たな組み合わせを再構成する必要が生じる。

その新しい事実の1つが福島原発事故である。過去に前例のない人災、過酷事故である福島原発事故の出現により、その出現に伴って、事故の救済に関するこれまでの価値判断も否応なしに再考を迫られた。その結果、カタストロフィーに相応しい価値判断に基づいて、改めて、事故の救済に関する「要件事実の組み合わせ」は再考と再構成を迫られることになったのは必然である。これが 表舞台には出ない、楽屋裏での生々しい、法的三段論法の本質的な検討作業である。

しかし、法的三段論法では、価値判断は舞台に立つ登場人物ではないため、上記の本質的な検討作業は法的三段論法の構成要素の中で論じることができない。いわば最も重要な本質的な検討が法的三段論法の舞台下で、あたかも日陰者の振る舞いみたいにこっそりと演じられている。最も重要な本質的な検討が、なにかよく分からない、川島武宜に言わせれば秘伝奥義的技術であるかのように演じられている。

その意味で、今や、我々はこの価値判断の作用をヌエ的な秘伝奥義的技術とせずに、その正体を白日の下にさらし、この作用について舞台上で堂々と議論すべきである。
そのとき、次のことが異論なく承認されると思う。すなわち、
もし法的三段論法が当初予定していた事実とは異質な、新たな事実が出現したあかつきには、もはや、それまでの「価値判断」は無条件に維持できず、改めて、どのような「価値判断」が採用されるべきか、そして、採用される「価値判断」に照らし、大前提を構成する要件事実はどのような組み合わせが妥当であるのか(法律的に言えば、「法の改正」もしくは「法の再解釈」)について吟味検討する必要がある。

最後にもう一度くり返すと、法的三段論法によれば、その当初、予定していたのとは異質な、新たな具体的な事実が出現したあかつきには、もはや従来の大前提が使える保証は失われ、そこで、新たな具体的な事実を当てはめるに相応しい「新たな大前提」を準備しなくてはならなくなる。だが、その「新たな具体的な事実(小前提)」と「新たな大前提」をつなぐ論理的な「架け橋」は存在しない。なぜなら、その「架け橋」は結局のところ「価値判断」によって架けるしかないものだから。つまり、三段論法にならって論理的に組み立てられたはずの法的三段論法はここで、つまり小前提を大前提に当てはめる場面(法律的に言えば、「法の適用」の場面)において、非論理的な、価値判断に関する困難な課題に直面する。

そこで、これを論理的に解くことは不可能だとしても、なお、「事実(小前提)」と「規範(大前提)」をつなぐ架け橋を、かつての法律のような法律制定者の主観、恣意を排除して(※3)、出来る限り客観的に成し遂げるための何か解き方(処方箋)はないのだろうか。

※3)これまで、法律家や判例は、この課題を「総合判断(評価)」と称してきた。だが、これがそのまま裸のままでは、判断者の好きな通りに、自分の判断を「総合判断」と称して、押し付けることができる。「総合判断」では主観的、恣意的判断の隠れ蓑になる。
いま、そうした主観的、恣意的判断を排除するための解き方が求められている。

その手掛かりはある。尤も、この処方箋は法的三段論法の構造の中には書かれていない(※4)。しかし、この価値判断の客観化への道は、価値判断(善悪)の探求の中から見つけ出すことはなお可能なのだ。

その探求は別文で。

※4)かといって、《我々は「事実」と「規範」はどのように繋がれるのかという永遠の難問に独力で立ち向かうしかない》などと嘆く必要もない。その前にまだやれることがある。

【つぶやき9】追出し裁判、最高裁に上告受理申立ての3通目の補充書を提出:規範が事前の規範と事後の規範の2方面に作用するのに着目し、住まいの権利裁判の先日の成果を追出し裁判に活用(25.11.19)

                               追出し裁判、最高裁に 補充書(2) を提出(11月17日) 1、概要  住まいの権利裁判の前々回の9月1日から前回の11月12日までの2ヶ月余りの間、仮設住宅提供の打ち切りを決めた内掘県知事決定の裁量権の逸脱濫用の適否...