秘密投票は民主主義の最高の制度の1つとして根付いている。しかし、このノーベル賞級のアイデアを誰が思い付いたのか、誰も知らない。
これと同様、法的三段論法(※1)は近代の法律の根本原理の1つとして根付いている。しかし、いったい誰がこのアイデアを思い付いたのか、誰も知らない。
(※1)「大前提」に「小前提」を当てはめて「結論」を導き出す思考方法。
ただ、 このアイデアは法的三段論法の名の通り、アリストテレスが整備したとされる三段論法を法律に応用したもの。ゆえに、このアイデアを思いついた人はアリストテレスの論理学を使って、法律の構造を首尾一貫した論理構造に仕立てて、もって、権力者による法律の主観的、恣意的運用を排除すること(「人の統治」の否定)を目指したのだと思う。それならば、このアイデアを最初に実行した人が13世紀のトマス・アクィナス。彼はアリストテレスの三段論法をキリスト教に応用した最初の人物として知られる。「宗教の論理化」--その偉大な成功に見習って、だったらこのアイデアは法律にも使えると、ひそかに思った人が法的三段論法の最初のアイデアマンではないかに思う。
その真相はともかく、ここで重要なことは、一方で、「法律の論理化」により、法律はそれまでの権力者による主観的、恣意的運用を排除して、機械的とも言うべき正確・厳密な運用が担保されることになった。これはこれでひとつの立派な「正義」だ。
しかし、同時に他方で、「法律の論理化」により、法律はそれまで三段論法が予定していなかった新たな困難をしょい込むことになった。それが2つの前提のうち、一方の大前提には規範(ゾレン=Sollen)、他方の小前提には(個々具体的な)事実(ザイン=Sein)という次元の異なる出来事を比べあって、そこから結論を引き出すことにしたから。それまで三段論法は、以下の伝統例の通り、
- 大前提:全ての人間は死すべきものである。
- 小前提:ソクラテスは人間である。
- 結論:ゆえにソクラテスは死すべきものである。
の大前提と小前提はともに事実(存在)のレベル同士だった。違うのは大前提が普遍的な事実であるのに対し小前提は個々具体的な事実という程度の違い。ゆえに両者の比較はごく自然に行なわれる。
しかし、法的三段論法はそうはいかない。規範とはゾレン(~すべきこと・当為)であって、価値判断によって結論に初めて到達できるのであって、価値判断を入れないザイン(~であること・存在)とは水と油のように異なる。この次元の異なる、異質なもの同士の結婚(当てはめ)が自然に、すんなりと行くはずがなく、ギクシャクするのは必然だ。
すなわち、どんなに事実(存在)を積み重ねたとしても、そこから論理必然的に規範(当為)を導き出すことはできない。必ず、或る、何かしらの「すべきである」という価値判断を加えて初めて規範(当為)に到達できる。法的三段論法では、三段論法とちがって、この価値判断を加えることが「大前提に小前提を当てはめる」ときに、暗黙のうちに、ひそかに前提とされている。価値判断の暗黙の挿入というこんな事態は三段論法ではあり得ない。
例えば、婚姻が成立するための要件として、現憲法は24条で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とうたっている。これだけ読むと、両者の「結婚する」という合意の事実で、あたかも自動的に「婚姻の成立」が導かれるように思えるが、そうではないことが明治の民法と比べたら一目瞭然だ。旧民法は「家族が婚姻または養子縁組をなすには戸主の同意を得なければならない。」(750条)と定め、両性の合意だけでは婚姻は成立しなかったからだ。つまり、「婚姻の成立」という結論は事実の積み重ねだけで自動的に導かれるのではなく、それは「婚姻の成立」をいかなる場合に認めるべきかという価値判断によって決まった。家制度を最優先する価値判断のもとでは、婚姻は「両性の合意」だけでは足りず、「戸主の同意」が必須とされた。これに対し、個人の尊厳を最優先する価値判断のもとでは、婚姻は「両性の合意」だけあれば必要かつ十分であり、それ以上、家制度の拘束は不要とされた。つまり、法的三段論法の大前提を構成する要素(要件事実)が何であるか、それは価値判断に基づいて決定されたのであり、大前提を構成する要素として特定の要件事実の組み合わせが選ばれたとき(法律的に言うと「法の制定」もしくは「法の解釈」)、その組み合わせそのものの決定過程に、明確に、法律制定者の価値判断が反映されている。
言い換えれば、大前提の中身を決定する主役は価値判断である。にもかかわらず、法的三段論法では、主役の価値判断はいくら待っても表舞台に登場しない。つまり、姿を現して中身を直接に表明することをしない。表舞台に登場するのは要件事実の組み合わせである。この登場人物のおかげで、小前提の個々具体的な事実は大前提にスムーズに当てはめることができるというわけだ。その結果、こうした、主役の登場しない法的三段論法の舞台は人々に法的三段論法を秘伝奥義(※2)と思わせる根本的な原因となった。
(※2)法律が「普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』」(川島武宜「科学としての法律学」)のように不信がられる原因となった。
では、なぜ、このような主役の登場しないややこしい三段論法というやり方を採用したのか。思うに、一方で、異次元同士の「事実(ザイン)の規範(ゾレン)への当てはめ」は、素直に考えれば、本来の三段論法の(「事実(ザイン)同士の当てはめ」という)論理的枠組みから逸脱している。にもかかわらず、法的三段論法のアイデアマンは、そこで三段論法の法律への応用という企てを断念しなかった。さらに言えば、断念したくなかったのだと思う。そこで、本人はどうしたか。思うに、思案の末、ひとつの解決策を思いついた。それが、そのような逸脱の批判を浴びないようにすること、つまり別に逸脱していないように人々に思わせることである。そこで、価値判断に関する事柄を法的三段論法の構成要素から消し去った(隠蔽した)。つまり、実はものすごい重要な作用として価値判断を加えているのに、表向きは何も加えていないかのような構成に仕上げた。それが上記の「主役の登場しないややこしい三段論法」である。そのおかげで、法的三段論法はあたかも本来の三段論法の(「拡張」ではなく)単なる「延長」であるかのように人々に思い込ませることに成功した(ハッキリ言えば、人々を欺いた)。
再びくり返すと、この最も重要で、本質的な「価値判断を加えること」という作用は法的三段論法の大前提の中で明示的な構成要素とされていない。その代わり、大前提を構成するこれこれの要件事実を決定する過程で「価値判断を加えること」をひそかに実践することにして、いったん要件事実が決定されたあとは、法的三段論法の構成要素として価値判断の痕跡を一切ぬぐい去ったのである。だから、この価値判断という作用は要件事実の組み合わせの決定という果実の中に実を結んでいる。つまり、要件事実の決定過程で事実と価値判断が緊密に連携して要件事実の組み合わせの決定という実を結んだ。
ところで、 価値判断が「要件事実の組み合わせ」という形で結実化するということは、今までなかったような新しい事実が出現すれば、その出現に伴って新しい価値判断をもたらす可能性がある。その結果、その新しい価値判断に基づいて、改めて「要件事実の組み合わせ」を再考し、新たな組み合わせを再構成する必要が生じる。
その新しい事実の1つが福島原発事故である。過去に前例のない人災、過酷事故である福島原発事故の出現により、その出現に伴って、事故の救済に関するこれまでの価値判断も否応なしに再考を迫られた。その結果、カタストロフィーに相応しい価値判断に基づいて、改めて、事故の救済に関する「要件事実の組み合わせ」は再考と再構成を迫られることになったのは必然である。これが 表舞台には出ない、楽屋裏での生々しい、法的三段論法の本質的な検討作業である。
しかし、法的三段論法では、価値判断は舞台に立つ登場人物ではないため、上記の本質的な検討作業は法的三段論法の構成要素の中で論じることができない。いわば最も重要な本質的な検討が法的三段論法の舞台下で、あたかも日陰者の振る舞いみたいにこっそりと演じられている。最も重要な本質的な検討が、なにかよく分からない、川島武宜に言わせれば秘伝奥義的技術であるかのように演じられている。
その意味で、今や、我々はこの価値判断の作用をヌエ的な秘伝奥義的技術とせずに、その正体を白日の下にさらし、この作用について舞台上で堂々と議論すべきである。
そのとき、次のことが異論なく承認されると思う。すなわち、
もし法的三段論法が当初予定していた事実とは異質な、新たな事実が出現したあかつきには、もはや、それまでの「価値判断」は無条件に維持できず、改めて、どのような「価値判断」が採用されるべきか、そして、採用される「価値判断」に照らし、大前提を構成する要件事実はどのような組み合わせが妥当であるのか(法律的に言えば、「法の改正」もしくは「法の再解釈」)について吟味検討する必要がある。
最後にもう一度くり返すと、法的三段論法によれば、その当初、予定していたのとは異質な、新たな具体的な事実が出現したあかつきには、もはや従来の大前提が使える保証は失われ、そこで、新たな具体的な事実を当てはめるに相応しい「新たな大前提」を準備しなくてはならなくなる。だが、その「新たな具体的な事実(小前提)」と「新たな大前提」をつなぐ論理的な「架け橋」は存在しない。なぜなら、その「架け橋」は結局のところ「価値判断」によって架けるしかないものだから。つまり、三段論法にならって論理的に組み立てられたはずの法的三段論法はここで、つまり小前提を大前提に当てはめる場面(法律的に言えば、「法の適用」の場面)において、非論理的な、価値判断に関する困難な課題に直面する。
そこで、これを論理的に解くことは不可能だとしても、なお、「事実(小前提)」と「規範(大前提)」をつなぐ架け橋を、かつての法律のような法律制定者の主観、恣意を排除して(※3)、出来る限り客観的に成し遂げるための何か解き方(処方箋)はないのだろうか。
(※3)これまで、法律家や判例は、この課題を「総合判断(評価)」と称してきた。だが、これがそのまま裸のままでは、判断者の好きな通りに、自分の判断を「総合判断」と称して、押し付けることができる。「総合判断」では主観的、恣意的判断の隠れ蓑になる。
いま、そうした主観的、恣意的判断を排除するための解き方が求められている。
その手掛かりはある。尤も、この処方箋は法的三段論法の構造の中には書かれていない(※4)。しかし、この価値判断の客観化への道は、価値判断(善悪)の探求の中から見つけ出すことはなお可能なのだ。
その探求は別文で。
(※4)かといって、《我々は「事実」と「規範」はどのように繋がれるのかという永遠の難問に独力で立ち向かうしかない》などと嘆く必要もない。その前にまだやれることがある。