2023年11月14日火曜日

【実践2】(最終解決):ウィーン条約31条3項(c)の「関連規則」に国連、国際機構の決議が含まれるか。(23.11.15)

 これは先月10月25日に出た「国際人権法を斟酌して日本の法律の違憲を引き出した最高裁大法廷決定」(→その報道ニュース)の論理を突き詰めるための作業。
検討して行く中で、このウィーン条約31条3項(c)の「関連規則」に条約のような法的拘束力を持たない、かといって純然たる事実でもない
法規範と事実の中間に位置する「国連や国際機構の決議等」が含まれるか、という問題は、国際法(国際人権法も含む)は日本の法体系に適用されるか(言い換えると、日本の法体系を形成するか)という問題で、直接適用と間接適用という2つのレベルで議論されるのと同型の問題だと分かった。これは貴重な気づき。

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○○さん

先ほど書きました「理論的解決が着きました」というメール、あのあと、考え直しまして、
最終決着に到着しました。

その答えは、私見は通説に立ったとしても成り立つ見解である、というものです。
どういう意味かと言いますと、
たとえ通説に立って、「関連規則」に含まれるのは法的拘束力を有する条約、慣習国際法等だけであるとしても、なお、それらの条約、慣習国際法等を適用するためには、条約、慣習国際法等の範囲・意味を「明確にする」必要があり、そこでこの「明確にする」ための基準として判例、学説、国連や国際機構の決議等が用いられる。このことは異論がない。そこで、判例、学説、国連や国際機構の決議等は条約、慣習国際法等の範囲・意味を「明確にする」ための基準として用いられることを通じて、間接的に「関連規則」の範囲・意味を決定することになる。この意味で、間接的に「関連規則」に含まれると言ってよい。
いずれにせよ、以上の関係さえ明確にされれば問題は解決したのであり、それ以上、「関連規則」に判例、学説、国連や国際機構の決議等が含まれるか、という議論をすることは無用であり、不毛ですらある。

以上、この論点の核心は、いかに正しく問題を設定(提出)するか、にあることだと分かりました。

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この間、お尋ねしている
《ウィーン条約31条3項(c)の「関連規則」に法的拘束力を有しない国連、国際機構の決議が含まれるか。》
について、理論的に私なりに決着が着きました(まだ詰める必要がありますが)。

私の結論はいわゆる通説ではない少数説の立場と同じで、「関連規則」に法的拘束力を有する条約、慣習国際法等だけでなく、法的拘束力を有しない国連、国際機構の決議も含まれるというものです。
その根拠ですが、
1、概念的には、この「関連規則」とは関連する「国際法の法源」すなわち規則の存在形式という意味だと捉えます。そうすると、今日、「国際法の法源」とは「形式的法源」と「実質的法源」の2つの類型があるとされ、前者が法的拘束力を有する条約、慣習国際法等であり、後者が法的拘束力を有しない判例、学説、国連や国際機構の決議等とされているからです。

2、目的論的、法社会学的には、国際法という法規範が形成されるプロセスを考察する中で得られるからです。つまり、
国際法という法規範が形成されるプロセスには2つのやり方があります。1つは立法作用。もう1つは司法作用(法の解釈)。もともと社会状況が変化したり、これまでなかった事態が発生した場合(原発事故が典型)、新しい状況や事態に対応するために、法を改正、新設するやり方(立法)と法の解釈を再構成するやり方(司法)の両方があります。それぞれちがうやり方ですが、そこにある目的や方法論には共通するものがあります。
後者の司法作用(法の解釈)について、「国際法の法源」として「形式的法源」と「実質的法源」の2つがあり、「実質的法源」とはそれが直接に法的拘束力を有するものではないが、しかし「形式的法源」の範囲・意味を「明確にする」ための基準として用いられる。その限りで、間接的に国際法の法源として機能する。この意味で、国連や国際機構の決議等も「実質的法源」として「国際法の法源」とされる。

だとしたら、前者の立法作用においても、同様に考えるべきである。つまり、立法された「国際法の関連規則」の中には、法的拘束力を有する条約、慣習国際法等(=形式的法源)だけでなく、法的拘束力を有しない判例、学説、国連や国際機構の決議等(=実質的法源)も含まれる、と。ただし、判例、学説、国連や国際機構の決議等はそれらが直接、法規範として作用するのではなく、法規範として作用する条約、慣習国際法等の範囲・意味を「明確にする」ための基準として用いられるものである。このちがいを明らかにした上で、判例、学説、国連や国際機構の決議等も立法された「国際法の関連規則」の中に含まれると解釈して、何ら不都合がないばかりか、この解釈こそ、後者の司法作用(法の解釈)の考え方とも整合性が取れており、国際法全体を踏まえた調和的な解釈として最適である。

つまり、法とか規則を何か固定したものや、時間を止めて静的な状態で眺めるのではなく、運動するプロセス、時間の流れの中で動的な変化の中で眺めた場合、法的拘束力を有する条約、慣習国際法というのは形が決められた1つのゴールであるのに対し、法的拘束力を有しない判例、学説、国連や国際機構の決議等は形が決まらない、生成途上のダイナミズムを孕んだ運動体として位置付けられます。そして、後者の運動体がたえず「形が決められた」条約、慣習国際法を揺さぶり、あらたな法規範の形成(改正)に向けて問題提起をしています。この両者の関係を全体として捉えようとしたのが私の上記の考え方です。

もしDörrら国際法の学者たちが、そのような考え方を採っているとしたら、大歓迎です。
それを考えながら、Dörrの本を読み解いていこうと思います。

ひとまず私案を書きました。
このアイデアは、私が最近、日本版の会で言っていること「日本版は既に制定されている」という考えと同様のものです。

とり急ぎ。

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多忙な中、スミマセン。
国際人権法の解釈の問題で、ちょっと至急検討する課題にぶつかりまして、それを調べているうちに、解決まであともうちょっとのところまで漕ぎ着けまして、そこで○○さんにお尋ねさせて頂いた次第です。

条約の解釈基準などについて定めた条約(ウィーン条約)が1969年に出来たんですが、  
問題は、この解釈基準を定めた31条3項(c)の、
3 文脈とともに、次のものを考慮する。
  ‥‥‥‥
 (c)当事国の間の関係において適用される国際法の関連規則

の「関連規則」とは何か、です。これに該当するものいかんによって、避難者の避難の権利の解釈ががらっと変わってきます。具体的には、この「関連規則」の中に、
、国連の委員会、国際会議の決議・宣言・報告書・準備作業
、国際機構の決議
も含まれるかどうかです。もし含まれるなら、例えば国連人権理事会が1998年に作成した「国内避難民に関する指導原則」
も、上記の「関連規則」に該当することになって、原発事故の避難者と福島県との紛争で問題となる社会権規約の解釈に「国内避難民に関する指導原則」を解釈基準として用いることが可能になり、避難者に俄然、有利になります。
         
そこで、この決定的な問題の解決の手がかりを探していた所、
上記ウィーン条約案の作成を担当した国際法委員会が、ウィーン条約のコメンタリーを作成していることが分かりました。これを是非とも見たいのですが、○○さんに探していただくこと、可能でしょうか。
検索のキーワードは次の2つです。
国連国際法委員会International Law Commission: ILC

ウィーン条約=条約法に関するウィーン条約
Vienna Convention on the Law of Treaties
 
スミマセン、これが解決しないと、外の仕事が一歩も手がつけられず、つい、ご相談させて頂いた次第です。

2023年2月25日土曜日

【実践1】一審の国際人権法・行政裁量論の主張を、法解釈の原点に立ち帰って再構成、位置づける(23.2.27)

 第1、法解釈の本来のあり方

 70年近く前、民法学者の来栖三郎は法の解釈について、こう述べた。

「こうみてくると、何と法律家は居丈高なことであろう。常に自分の解釈が客観的に正しい唯一の解釈だとして、客観性の名において主張するなんて。しかし、また、何と法律家は気の弱いことであろう。万事法規に頼り、人間生活が法規によって残りくまなく律せられるように考えなくては心が落ち着かないなんて。そして何とまた法律家は虚偽で無責任なことであろう。何とかして、主観を客観のかげに隠そうとするなんて。」(「法の解釈と法律家」(1954年)より」

そこから、彼は「法律家の従うべき正しい解釈の方法」を次のように指摘する。

「法規範を実定法の規定からの論理的演繹によってではなく、現実の社会関係の観察・分析によってその中から汲みとるべきである」 

同じ頃、法社会学・民法学・憲法学者の渡辺洋三は、法の解釈に関連して、行政庁の行政行為の裁量論(違法か否かの司法判断)について、こう述べた。

「そもそも行政行為の性質や種別に注目し、いかなる行為が裁判所の判断の対象となりうるか、ないしなりえないかという形での問題の提起の仕方自体がおかしいのである。ここで問題とされるのは、一定の行政行為そのものではなく、それをめぐって生ずる、あるいは存在する行政庁と国民の間の現実の関係でなければならない。」(「法治主義と行政権」(1958年)より)

そこから、彼は、行政庁の行政行為の裁量の合法・違法の判断にあたって、「法律家の従うべき正しい解釈の方法」を次のように指摘する。

「ある行政処分をめぐって行政庁と国民との間に一定の関係が現実に生じたとき、その現実の関係のいかなる側面が合法・違法の問題を生ずる余地のある関係であるか、いかなる側面がそうでないかが問題であるとすれば、まず第一に、その現実の関係の把握が基礎にならなければならない」 

 第2、法解釈の本来のあり方の本件への適用

 ここに示された「法律家の従うべき正しい解釈の方法」を本裁判に当てはめれば、次のようになる。

本裁判の第1の主題は、本件における「行政処分をめぐって生じる行政庁と国民の間の現実の関係」である。すなわちそれは、自主避難者に対する仮設住宅無償提供打切りを決めた2015年6月の内堀決定(以下、内堀決定という)が、被告らをはじめとする自主避難者の生活再建に対して現実にいかなる影響をもたらすものであるのか、その現実の影響関係の把握である。にもかかわらず、原審裁判所はこの事実関係の立証のために被告らが申請した被告本人尋問を全て却下したばかりか、判決の中でも、被告らに襲いかかった現実の影響関係の把握は何も示されていない。要するに、本裁判の第1の主題である「内堀決定が被告らに及ぼした現実の影響関係」について、原判決は検討も応答も何もしていない()。

同じく、本裁判の第2の主題は、被告らの生存を脅かす「行政処分の現実の判断過程」である。すなわちそれは、自主避難者に対する仮設住宅無償提供打切りを決めた2015年6月の内堀決定がいかなる意図から、いかなる検討過程を経て政策決定されたものか、具体的には、この政策決定にあたって、本来最も重視すべき「自主避難者の命、健康を守り、生活再建を果すという要素、価値」を、予算や経済復興などの他の要素、価値との間で実際にどのように比較考慮して検討して結論を導いたのか、また本来考慮に容れるべきでない他事考慮事項(たとえば自主避難者に避難先の残留より帰還を優先させる)を考慮に容れたのではないか、もしくは本来過大に評価すべきではない事項(たとえば自主避難者に福島県の経済復興への協力を要請する)を過重に評価したのではないか、といった内堀決定の意図び判断過程における現実の事実関係の把握にある。

にもかかわらず、原審裁判所はこの事実関係の立証のために被告らの申請した内堀知事の証人尋問を却下したばかりか、判決の中でも次のように、もっぱら福島県内の状況を抽象的一般的に述べるだけで(全く具体性がない)、肝心の被告らをはじめとする自主避難者の生活再建の状況については何ひとつ具体的な検討されないまま、なおかつ上記に述べた「内堀決定の意図及び判断過程における現実の事実関係」は何ひとつつ明らかにされないまま、内堀決定に違法性はないという結論が導かれたのである。その上、被告らがこの間調査して得た後述する情報によると、内堀決定の意図は自主避難者の存在を一刻もすみやかに消滅させることにあり、県民を守るための組織である原告に課せられた「自主避難者の命、健康を守り、生活再建を果す」という目的は皆無であった(この点は内堀決定の経緯に関する原告の主張とも矛盾しない)。もし、内堀決定のこの意図の不法性が明らかにされたら、それだけで 内堀決定の違法性が有力に推認される。しかし、原審裁判所は、本裁判の主題である「内堀決定の意図及び判断過程における現実の事実関係」に全く踏み込まず、裁判所に課せられた行政処分の判断過程に対する審査を自ら放棄して、内堀決定の適法性を導いた。これは行政処分の判断過程という重要事項の判断の怠慢であり、「判断の遺脱」というほかない。

本件政策判断において本件原発事故から平成293月までに約6年が 経過し、その間、 福島県内の各市町村では除染が実施され、公営住宅の整備、公共インフラの復旧などが行われるなどしていること、これらの進捗状況や、阪神・淡路大震災の例や東日本大震災による被災にかかる宮城県・岩手県における取扱いなどが、考慮された 」(29~30頁)

)だからこそ、判決は、たとえ被告らが追出されても、「その時には生活保護等の他の社会保障制度によって救済されるのだから心配ない、人権侵害の問題も発生しない」(29頁)旨の、観念的な空理空論の言辞で答えたのであり、自ら、被告らが置かれた現実の状況に対して配慮が一顧だにないことを赤裸々に告白したのである。

 

第3、 内堀決定の意図

 (「原発棄民」参照に)未完

 

第4、「法の欠缺」問題と国際人権法による「欠缺の補充」問題 

19世紀まで欧米の法学の定説であった概念法学(それは「法秩序の論理的完足性」に対する信仰に根ざしたものであった[1])に対し、20世紀初頭、「現実の社会生活」への奉仕という法の本来の目的に立ち帰ることを強調したイエリング[2]に始まる自由法論及び「法における認識と価値判断」を峻別するケルゼンをはじめとする法実証主義からの批判が起こり、20年足らずのうちに学界の通説となった(我が国も宮沢俊義、横田喜三郎、末広巖太郎、我妻栄などが支持)。

もともとあらゆる問題を想定して法律を制定することは不可能である以上、「法における認識と価値判断」を峻別する立場からは現実に発生する紛争事実に対してこれに対応する法律の規定が存在しない場合が出てくるのは不可避のことであり、このような事態は当然のことであった。これが「法の欠缺」という問題であり、この問題について法哲学者の碧海純一は次のように解説する。
 
《「欠缺」とは「欠けているところ」という意味であり、現存する法律では解決できない問題があるとき、そのかぎりで、法律に「欠缺」があるといわれる。伝統的な法源論は、法典における欠缺の存在をなかなか認めようとせず、いろいろ解釈手段をつくせば、一見欠缺と思われるものも実はそうでないのだ、と主張した。これに対し、自由法論者は、法典は人間の作品であってはじめから完全ではありえないうえに、社会の発展によってますます欠缺が多くかつ大きくなるという、常識的に見てあたりまえの事実を、裁判官も法学者もすなおに直視すべきであって、無理な強弁によって事実を糊塗すべきではないということを力説した。(「法と社会」163~164頁) 
 
この点、福島原発事故前まで災害救助法をはじめとする我が国の法体系は原発事故に関する具体的な救済は何ひとつ制定されておらず(立法資料で明らかである)、この事態をすなおに直視すれば、原審裁判所も「法の欠缺」状態にあることを認識できたはずである。にもかかわらず、判決は原発事故に関する具体的な救済が災害救助法などにおいて「法の欠缺」状態にあることを認めず、従って、「欠缺の補充」の問題の存在も認めず、災害救助法などにおいて発生した「法の欠缺」状態を補充するために、国際人権法が保障する居住権に適合するように補充をすべきであるという被告主張も無視して、無理な強弁によって「欠缺の補充」すらなかったかのように振舞った。
 
改めて、碧海純一の上記の解説から、次のことが導き出される。
 
もともと行政府が制定する政令が法規範として承認されるのはなに故であるか。それは当該政令が上級の法規範である法律に基いて制定されたからであり、それゆえ当該上級規範に適合すると認められるからである。では、当該上級規範の法律が法規範として承認されるのはなに故であるか。それは当該上級規範である法律がさらに上級の法規範である憲法に基いて制定されたからであり、それゆえ当該上級規範の憲法に適合すると認められるからである。この法の段階構造を明らかにし、いっさいの法令を統一的な一つの法体系の下に把捉したのがケルゼンの序列論[1]であり、今日、異論なく認められているところである。

 そうだとしたら、もし特定の紛争事実に対して、適用すべき法律が具体的な判断基準を直接示すことができない、いわゆる「法の欠缺」の場合、当該「法の欠缺」を補充するというのは或る意味で、当該「法の欠缺」部分についての制定行為と解することができる。従って、補充に当たっても、当該法律を法規範たらしめている根拠である上位規範に立ち帰って、当該「法の欠缺」部分を当該上位規範に基づいて、なおかつこれに適合するように具体的な補充をするのが、法の段階構造に立つ現行法の態度として最も適切なものといえよう。



[1] 横田喜三郎「純粋法学論集Ⅰ」(有斐閣)4頁。27~28頁。碧海純一法哲学概論」(弘文堂)全訂第2版171頁。団藤重光「法学入門」109頁以下。

 
 
 

[1]碧海純一「法哲学概論全訂第2版」167頁。

[2]碧海純一「法哲学概論全訂第2版」165頁。

 

【各論1】一審の国際人権法・行政裁量論の主張を、法解釈の原点に立ち帰って再構成、位置づける(23.2.27)

 追出し訴訟一審では、国際人権法・行政裁量論の論点を、それ自体が膨大な主張であったせいもあるが、これだけを被告らの居住権の抗弁事実として主張したが、

それ以上、この論点が裁判全体の主張の中で、言い換えると、あるべき法解釈の全体像の中で、位置付けることまでしてこなかった。

その結果、この論点と現実の社会関係の事実とのつながりが希薄になり、法律論と事実論とがリンクして裁判全体の主張を構成するというふうにならなかった。

いま、控訴審を前に、この2つの重要論点を、避難者が置かれた現実の社会関係の事実とガッチリつなげて、この事実の持つ重みを前面に出し、かつそれに匹敵する法律論として この2つの重要論点が存在することが伝わるように、再構成する必要がある。

言い換えれば、それは「 あるべき法解釈の中で、この2つの重要論点という法律論と避難者が置かれた現実の社会関係の事実論が全面的に展開される」という構成をめざすこと。

 

2023年1月29日日曜日

【総論2】スタート2:法における価値判断の論証可能性の再吟味(23.1.29)

 これまでずっと、法律に対する価値判断とは、価値観の多様性を容認する以上、異なる複数の価値判断に対し、事実問題における真か偽かといった判定は不可能であり、価値判断をする者の主観的な好みに委ねざるを得ないと考えて来た。

具体的に言えば、現実の裁判で、法律に対しいかなる価値判断=法解釈をするか否かは、法解釈を下す裁判官の主観的な好みによって決められることであり、この価値判断に対し、偽であるとその誤りを主張することはできないと考えて来た。その限りで、裁判官の法解釈の前に我が身の無力感を感じてきた。

しかし、それは本当にそうなのか。
本当に、それ以外の方法を考える余地はないのか。
果して、この問題を突き詰めてきたのか。
まだ、突き詰めたことはなかったのではないか。

証明問題において、例えばピタゴラスの定理の証明に対しては、どんな悪意や権力を持った人間でもこれにノーと言うことはできない。そこでもし、法律に対する価値判断を、あたかもこのピタゴラスの定理のような証明問題として捉えることができたなら、つまり、もし法律に対する価値判断を証明可能な形にまで練り上げることができたなら、そのとき、このような証明に対して、どんな悪意や権力を持った裁判官でも、これに簡単にはノーと言うことはできないのではないか。もしノーと言った時には、それは「判決の内部崩壊」であり、法律(民事訴訟法)違反の指摘を受けることになる、とそのような裁判官を戦慄せしめるほど追い詰めるものになるのではないか。

しかし、それは唐人の寝言にすぎない、とすぐ反論が出てくるだろう。なぜなら、
ピタゴラスの定理をめぐっては1つしか定理はない。これに対し、法律に対する価値判断=法解釈はいくつもの解釈が並び立つ。並存可能だ。その意味で、数学の証明も事実問題と同じで、真か偽のいずれしかないからである。
法律の構造は論理学の三段論法を採用している、だから、論理的に1つの法解釈が可能ではないかと考えるかもしれない。しかし、今、問題にしていることは三段論法の「大前提」にあたる法解釈をただ1つだけの解釈に追い込むことができるかどうか、であって、この場面では論理学は関係ないからである。

 しかし、たとえ法律に対する価値判断をピタゴラスの定理のような証明問題として捉えることが不可能だとしても、それでもなお、法律に対する価値判断を証明可能な形に限りなく肉薄するまで練り上げることができたならば()、それは悪意や権力を持った裁判官を十分に、戦慄せしめるに足りるだけの力を発揮できるのではないか。

)それは、近代科学や数学が有限の発想で壁にぶつかった時、戦略を変更して無限を導入して限りなく接近するという「無限小解析」のアイデアで問題を解決したのをモデルにしている。法律学は近代科学や数学から問題解決のアイデアをもっと大胆に学ぶべきなのだ。

原理的には、いくら 法律に対する価値判断をピタゴラスの定理のような証明問題として捉えたとしても、悪意や権力を持った裁判官がこれを無視して、違法な判決を書くことはいくらでも可能だ。それに対しては、法律(民事訴訟法)違反を指摘して抵抗するほかない。だとしたら、たとえ法律に対する価値判断をピタゴラスの定理のような証明問題として捉えることが不可能でも、なお法律に対する価値判断を証明可能な形に限りなく肉薄するまで練り上げてこれでもって悪意や権力を持った裁判官に迫り、彼らを戦慄せしめるべく闘うことは十分に実践する価値がある取組みである。

そこから、私にとって次の新たな課題が登場してきた。
ーー法律に対する新たな課題は、先ほど【総論1】で述べた「認識」のレベルだけにとどまらない、「評価=法解釈」のレベルでもあり得るのだ、と。

「評価=法解釈」のレベルの新しい課題とは、
法律に対する価値判断を証明可能な形に限りなく肉薄するまで練り上げることはいかにして可能か?
そして、そのレベルで勝敗はいかにして可能か?
それが、裁判官の恣意的判決をどのようにして阻止し得るものか?

これもまた自分に課せられた課題。

その意味でも、これは新米法律家のスタート。

【総論1】スタート1:法における認識の重要性の目覚め(22.6.15)

これまでずっと、 法律とは法的な価値判断(評価)であって、それ以上、法律に対し「認識」することは考えてもみなかった。法律問題とは柄谷行人経由のカントの「真・善・美」のうちの善の問題であって、専ら「評価」することしか考えなかった(これはカント自身がそうだった)。

しかし、今、法律に対しても、
「評価」のに、まずその「評価の対象」を認識することが大前提であり、
「認識」なしに「評価」はあり得ないことに気がついた(それは20世紀に至り、新カント派が認識の対象を「事実」のみならず、「法規範」まで拡張することを主張したことを法哲学者の碧海純一の本から知った。言われてみれば尤もなことで、なぜ、認識の対象を事実に限定していたのか、むしろ不思議なくらいだ)。

つまり、認識なき実践(法の評価=法解釈)は盲目だ、と。

そこから、私にとって新たな課題が登場してきた。
ーー法律の論争は、何も「評価=法解釈」のレベルだけにとどまらない、「認識」のレベルでもあり得るのだ、と。

だとしたら、「認識」のレベルの論争はいかなる形で闘われるものか?
そのレベルで勝敗はいかにして可能か?
それが、裁判官の恣意的判決をどのようにして阻止しうるものか?


これが自分に課せられた課題。

それは新米法律家のスタート。

【つぶやき9】追出し裁判、最高裁に上告受理申立ての3通目の補充書を提出:規範が事前の規範と事後の規範の2方面に作用するのに着目し、住まいの権利裁判の先日の成果を追出し裁判に活用(25.11.19)

                               追出し裁判、最高裁に 補充書(2) を提出(11月17日) 1、概要  住まいの権利裁判の前々回の9月1日から前回の11月12日までの2ヶ月余りの間、仮設住宅提供の打ち切りを決めた内掘県知事決定の裁量権の逸脱濫用の適否...