第1、法解釈の本来のあり方
70年近く前、民法学者の来栖三郎は法の解釈について、こう述べた。
「こうみてくると、何と法律家は居丈高なことであろう。常に自分の解釈が客観的に正しい唯一の解釈だとして、客観性の名において主張するなんて。しかし、また、何と法律家は気の弱いことであろう。万事法規に頼り、人間生活が法規によって残りくまなく律せられるように考えなくては心が落ち着かないなんて。そして何とまた法律家は虚偽で無責任なことであろう。何とかして、主観を客観のかげに隠そうとするなんて。」(「法の解釈と法律家」(1954年)より」
そこから、彼は「法律家の従うべき正しい解釈の方法」を次のように指摘する。
「法規範を実定法の規定からの論理的演繹によってではなく、現実の社会関係の観察・分析によってその中から汲みとるべきである」
同じ頃、法社会学・民法学・憲法学者の渡辺洋三は、法の解釈に関連して、行政庁の行政行為の裁量論(違法か否かの司法判断)について、こう述べた。
「そもそも行政行為の性質や種別に注目し、いかなる行為が裁判所の判断の対象となりうるか、ないしなりえないかという形での問題の提起の仕方自体がおかしいのである。ここで問題とされるのは、一定の行政行為そのものではなく、それをめぐって生ずる、あるいは存在する行政庁と国民の間の現実の関係でなければならない。」(「法治主義と行政権」(1958年)より)
そこから、彼は、行政庁の行政行為の裁量の合法・違法の判断にあたって、「法律家の従うべき正しい解釈の方法」を次のように指摘する。
「ある行政処分をめぐって行政庁と国民との間に一定の関係が現実に生じたとき、その現実の関係のいかなる側面が合法・違法の問題を生ずる余地のある関係であるか、いかなる側面がそうでないかが問題であるとすれば、まず第一に、その現実の関係の把握が基礎にならなければならない」
第2、法解釈の本来のあり方の本件への適用
ここに示された「法律家の従うべき正しい解釈の方法」を本裁判に当てはめれば、次のようになる。
本裁判の第1の主題は、本件における「行政処分をめぐって生じる行政庁と国民の間の現実の関係」である。すなわちそれは、自主避難者に対する仮設住宅無償提供打切りを決めた2015年6月の内堀決定(以下、内堀決定という)が、被告らをはじめとする自主避難者の生活再建に対して現実にいかなる影響をもたらすものであるのか、その現実の影響関係の把握である。にもかかわらず、原審裁判所はこの事実関係の立証のために被告らが申請した被告本人尋問を全て却下したばかりか、判決の中でも、被告らに襲いかかった現実の影響関係の把握は何も示されていない。要するに、本裁判の第1の主題である「内堀決定が被告らに及ぼした現実の影響関係」について、原判決は検討も応答も何もしていない(※)。
同じく、本裁判の第2の主題は、被告らの生存を脅かす「行政処分の現実の判断過程」である。すなわちそれは、自主避難者に対する仮設住宅無償提供打切りを決めた2015年6月の内堀決定がいかなる意図から、いかなる検討過程を経て政策決定されたものか、具体的には、この政策決定にあたって、本来最も重視すべき「自主避難者の命、健康を守り、生活再建を果すという要素、価値」を、予算や経済復興などの他の要素、価値との間で実際にどのように比較考慮して検討して結論を導いたのか、また本来考慮に容れるべきでない他事考慮事項(たとえば自主避難者に避難先の残留より帰還を優先させる)を考慮に容れたのではないか、もしくは本来過大に評価すべきではない事項(たとえば自主避難者に福島県の経済復興への協力を要請する)を過重に評価したのではないか、といった内堀決定の意図び判断過程における現実の事実関係の把握にある。
にもかかわらず、原審裁判所はこの事実関係の立証のために被告らの申請した内堀知事の証人尋問を却下したばかりか、判決の中でも次のように、もっぱら福島県内の状況を抽象的一般的に述べるだけで(全く具体性がない)、肝心の被告らをはじめとする自主避難者の生活再建の状況については何ひとつ具体的な検討されないまま、なおかつ上記に述べた「内堀決定の意図及び判断過程における現実の事実関係」は何ひとつつ明らかにされないまま、内堀決定に違法性はないという結論が導かれたのである。その上、被告らがこの間調査して得た後述する情報によると、内堀決定の意図は自主避難者の存在を一刻もすみやかに消滅させることにあり、県民を守るための組織である原告に課せられた「自主避難者の命、健康を守り、生活再建を果す」という目的は皆無であった(この点は内堀決定の経緯に関する原告の主張とも矛盾しない)。もし、内堀決定のこの意図の不法性が明らかにされたら、それだけで 内堀決定の違法性が有力に推認される。しかし、原審裁判所は、本裁判の主題である「内堀決定の意図及び判断過程における現実の事実関係」に全く踏み込まず、裁判所に課せられた行政処分の判断過程に対する審査を自ら放棄して、内堀決定の適法性を導いた。これは行政処分の判断過程という重要事項の判断の怠慢であり、「判断の遺脱」というほかない。
「本件政策判断において本件原発事故から平成29年3月までに約6年が 経過し、その間、 福島県内の各市町村では除染が実施され、公営住宅の整備、公共インフラの復旧などが行われるなどしていること、これらの進捗状況や、阪神・淡路大震災の例や東日本大震災による被災にかかる宮城県・岩手県における取扱いなどが、考慮された 」(29~30頁)
(※)だからこそ、判決は、たとえ被告らが追出されても、「その時には生活保護等の他の社会保障制度によって救済されるのだから心配ない、人権侵害の問題も発生しない」(29頁)旨の、観念的な空理空論の言辞で答えたのであり、自ら、被告らが置かれた現実の状況に対して配慮が一顧だにないことを赤裸々に告白したのである。
第3、 内堀決定の意図
(「原発棄民」参照に)未完
第4、「法の欠缺」問題と国際人権法による「欠缺の補充」問題
19世紀まで欧米の法学の定説であった概念法学(それは「法秩序の論理的完足性」に対する信仰に根ざしたものであった[1])に対し、20世紀初頭、「現実の社会生活」への奉仕という法の本来の目的に立ち帰ることを強調したイエリング[2]に始まる自由法論及び「法における認識と価値判断」を峻別するケルゼンをはじめとする法実証主義からの批判が起こり、20年足らずのうちに学界の通説となった(我が国も宮沢俊義、横田喜三郎、末広巖太郎、我妻栄などが支持)。
そうだとしたら、もし特定の紛争事実に対して、適用すべき法律が具体的な判断基準を直接示すことができない、いわゆる「法の欠缺」の場合、当該「法の欠缺」を補充するというのは或る意味で、当該「法の欠缺」部分についての制定行為と解することができる。従って、補充に当たっても、当該法律を法規範たらしめている根拠である上位規範に立ち帰って、当該「法の欠缺」部分を当該上位規範に基づいて、なおかつこれに適合するように具体的な補充をするのが、法の段階構造に立つ現行法の態度として最も適切なものといえよう。》
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