2023年1月29日日曜日

【総論2】スタート2:法における価値判断の論証可能性の再吟味(23.1.29)

 これまでずっと、法律に対する価値判断とは、価値観の多様性を容認する以上、異なる複数の価値判断に対し、事実問題における真か偽かといった判定は不可能であり、価値判断をする者の主観的な好みに委ねざるを得ないと考えて来た。

具体的に言えば、現実の裁判で、法律に対しいかなる価値判断=法解釈をするか否かは、法解釈を下す裁判官の主観的な好みによって決められることであり、この価値判断に対し、偽であるとその誤りを主張することはできないと考えて来た。その限りで、裁判官の法解釈の前に我が身の無力感を感じてきた。

しかし、それは本当にそうなのか。
本当に、それ以外の方法を考える余地はないのか。
果して、この問題を突き詰めてきたのか。
まだ、突き詰めたことはなかったのではないか。

証明問題において、例えばピタゴラスの定理の証明に対しては、どんな悪意や権力を持った人間でもこれにノーと言うことはできない。そこでもし、法律に対する価値判断を、あたかもこのピタゴラスの定理のような証明問題として捉えることができたなら、つまり、もし法律に対する価値判断を証明可能な形にまで練り上げることができたなら、そのとき、このような証明に対して、どんな悪意や権力を持った裁判官でも、これに簡単にはノーと言うことはできないのではないか。もしノーと言った時には、それは「判決の内部崩壊」であり、法律(民事訴訟法)違反の指摘を受けることになる、とそのような裁判官を戦慄せしめるほど追い詰めるものになるのではないか。

しかし、それは唐人の寝言にすぎない、とすぐ反論が出てくるだろう。なぜなら、
ピタゴラスの定理をめぐっては1つしか定理はない。これに対し、法律に対する価値判断=法解釈はいくつもの解釈が並び立つ。並存可能だ。その意味で、数学の証明も事実問題と同じで、真か偽のいずれしかないからである。
法律の構造は論理学の三段論法を採用している、だから、論理的に1つの法解釈が可能ではないかと考えるかもしれない。しかし、今、問題にしていることは三段論法の「大前提」にあたる法解釈をただ1つだけの解釈に追い込むことができるかどうか、であって、この場面では論理学は関係ないからである。

 しかし、たとえ法律に対する価値判断をピタゴラスの定理のような証明問題として捉えることが不可能だとしても、それでもなお、法律に対する価値判断を証明可能な形に限りなく肉薄するまで練り上げることができたならば()、それは悪意や権力を持った裁判官を十分に、戦慄せしめるに足りるだけの力を発揮できるのではないか。

)それは、近代科学や数学が有限の発想で壁にぶつかった時、戦略を変更して無限を導入して限りなく接近するという「無限小解析」のアイデアで問題を解決したのをモデルにしている。法律学は近代科学や数学から問題解決のアイデアをもっと大胆に学ぶべきなのだ。

原理的には、いくら 法律に対する価値判断をピタゴラスの定理のような証明問題として捉えたとしても、悪意や権力を持った裁判官がこれを無視して、違法な判決を書くことはいくらでも可能だ。それに対しては、法律(民事訴訟法)違反を指摘して抵抗するほかない。だとしたら、たとえ法律に対する価値判断をピタゴラスの定理のような証明問題として捉えることが不可能でも、なお法律に対する価値判断を証明可能な形に限りなく肉薄するまで練り上げてこれでもって悪意や権力を持った裁判官に迫り、彼らを戦慄せしめるべく闘うことは十分に実践する価値がある取組みである。

そこから、私にとって次の新たな課題が登場してきた。
ーー法律に対する新たな課題は、先ほど【総論1】で述べた「認識」のレベルだけにとどまらない、「評価=法解釈」のレベルでもあり得るのだ、と。

「評価=法解釈」のレベルの新しい課題とは、
法律に対する価値判断を証明可能な形に限りなく肉薄するまで練り上げることはいかにして可能か?
そして、そのレベルで勝敗はいかにして可能か?
それが、裁判官の恣意的判決をどのようにして阻止し得るものか?

これもまた自分に課せられた課題。

その意味でも、これは新米法律家のスタート。

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