これまでずっと、 法律とは法的な価値判断(評価)であって、それ以上、法律に対し「認識」することは考えてもみなかった。法律問題とは柄谷行人経由のカントの「真・善・美」のうちの善の問題であって、専ら「評価」することしか考えなかった(これはカント自身がそうだった)。
しかし、今、法律に対しても、
「評価」の前に、まずその「評価の対象」を認識することが大前提であり、
「認識」なしに「評価」はあり得ないことに気がついた(それは20世紀に至り、新カント派が認識の対象を「事実」のみならず、「法規範」まで拡張することを主張したことを法哲学者の碧海純一の本から知った。言われてみれば尤もなことで、なぜ、認識の対象を事実に限定していたのか、むしろ不思議なくらいだ)。
つまり、認識なき実践(法の評価=法解釈)は盲目だ、と。
そこから、私にとって新たな課題が登場してきた。
ーー法律の論争は、何も「評価=法解釈」のレベルだけにとどまらない、「認識」のレベルでもあり得るのだ、と。
だとしたら、「認識」のレベルの論争はいかなる形で闘われるものか?
そのレベルで勝敗はいかにして可能か?
それが、裁判官の恣意的判決をどのようにして阻止しうるものか?
これが自分に課せられた課題。
それは新米法律家のスタート。
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