2026年9月7日月曜日

【総論3】「対話」の可能性に「法解釈の客観性」を賭けた平井宜雄の法解釈論の偉大さに今ようやく気づいた(26.9.7)

9月1日に、民法学者の平井宜雄の「法解釈論の合理主義的基礎づけ」を読み直し、そこで、彼が「法解釈の客観性」を「合意」の成立ではなく、「対話」のプロセスの成立の中に見出していたことを知り、目からウロコで、驚愕した。
自分がまた新米法律家の第一歩を歩み出した気分だ。
以下、それについて小出裕章さんに宛てたメール(一部、加筆)。

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トランプやネタニヤフとちがい、価値観の多様性を容認してきた私はずっと、法律に対する価値判断とは、異なる複数の価値判断に対し、事実問題における真か偽かといった判定は不可能であり、価値判断をする者の主観的な好みに委ねざるを得ないと考えて来ました。

具体的に言えば、現実の裁判で、法律に対しいかなる価値判断=法解釈をするか否かは、法解釈を下す裁判官の主観的な好みによって決められることであり、この価値判断に対し、偽であるとその誤りを主張することはできないと考えて来ました。その限りで、裁判官の法解釈の前に我が身の無力感を感じてきたのです。

しかし、それは本当にそうなのか。
本当に、それ以外の方法を考える余地はないのか。
果して、この問題を突き詰めてきたのか。
まだ、突き詰めたことはなかったのではないか。

この突き詰めをしたひとりが民法学者の平井宜雄。彼は私の司法試験の最終面接の試験官で、この時、彼と直接、問答(対話)した経験があり、彼の質問に何とか応答できたと思った瞬間、合格を確信した。ずっとひそかに彼のような徹底した法的思考をしたいと願ってきた人です。 

その平井の「法解釈論の合理主義的基礎づけ」(ずっと前にコピーしっぱなしで読み通せなかった論文)を読み直し、価値判断が対立する法律の解釈において、どのようにして人々はそのような対立から1つの結論を導くのか、という最も困難な問題に対して、
それは人々が対話(議論)することだ
という、今までの法律解釈の世界では言われてこなかった解決方法を提示したのを読んで、ビックリ仰天した。
その理由について、平井はこう言っていました。
価値判断が対立する者同士の間では「合意」は容易に成立しないだろう。しかし、重要なことはそこに「主張←反論←再反論」という「対話」のプロセスが成立したことにある。なぜなら、そのプロセスが成立することによって、そこに、或る論点に関して、双方の間に、双方の主張や心理を超えたっそのプロセスが成立するという「了解」が生じ、その結果、両当事者の間に「共通の世界が拡大する」からだと。言い換えると、反論をくぐり抜け、反論に堪えた言説(主張)は、それだけ多くの当事者の間の共通の世界の一部となる。それは、その限りで「客観化」される。

!!
私は、これを読み、今までずうっとモヤモヤしていたことが、これでストーンと腑に落ちた気がした。法解釈の難問がひとつ壁をクリアして、一歩前に前進した気がした。
勿論、このような「対話」のプロセス自体がいつもすんなり成立するわけではない。最初から政治的、政策的結論ありきのゴリゴリの石頭には、このようなプロセスは期待できない。しかし、現実世界には、今なお、このような「対話」のプロセスが成立できる人々がまだまだいるというのが私の見立てです。

そして、日本の自治体の首長・議員の中にもそのような人たちがなおもいると信じ、彼らに向かって、チェルノブイリ法日本版のメッセージを発してみる価値があると思った。
その際、私のメッセージの究極の内容は「非政治家的政治家」への誘いです。それは既成の政治家のスタンスを否定し、これまでなかったような新しい価値を体現した政治家に挑戦しませんか、という意味です。具体的には、「人々を敵と味方に仕訳し、味方を増やし、有無を言わせず己の政策を実現させる」というこれまで何千年続いた既成の政治の論理、ここから脱して、すべての人々を差別なく扱う人権の論理で政治を再構築するという壮大な挑戦です(それは既に、これまでの世界史の中で無数の無名の人たちが挑戦してきた。私たは世界史を人権のメガネから再発見する必要がある。ロシア革命の再発見などそのささやかな試みが>こちら)。核兵器の登場で、戦争概念が一変したように、原発事故の登場によって、これまでの既成概念が一変した、そのひとつが「政治政策」概念だ、というのが私の見立てです。これを裁判所のみならず、立法・行政の担当者たちにも伝えて、「合意」されなくとも「対話」を通じて、問題の本質について「共通の世界が拡大する」ことができる。それをジワジワと一歩ずつ進めることを通じて、人々の意識を変革することができる。
その「対話」への挑戦が今回の私のスタンス。
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さらに、この考え方は、これまで漠然と同様に考えてきた様々な論点に、明確な光を当てる決定的な考え方だと分かった。
例えば、人権の手続的保障の重要性。
これまで人権の保障(言い直すと、人権侵害の有無)というと、或る人権がどのように制限され、奪われたのか、人権侵害の「結果」「結論」に注目して判断してきた。しかし、人権侵害かどうかは、そればかりではなく、むしろ人権がどのような手続を経て保障されたのか、或いは制約されたのか、という人権侵害の「手続」「過程」に注目して判断すべきだという考え方がとくに英米法にあり、前々からずっとそれがとても気になっていた。ただ、なぜこの考え方が重要なのか、それがずっと分からなかった。しかし、上の考え方を知り、この手続保障というのはまさに「対話」というプロセス(手続・過程)を通じて、価値判断をめぐる「客観的な」判断を導くことができるという立場なんだと合点がいった。
この手続の重要性を強調して、その手続が欠けていたことが行政決定の本質的な瑕疵(キズ)であると指摘したのが今年1月9日の避難者追出し裁判の三浦守意見(>こちら)。彼もまた手続保障がなぜ重要なのかについて、判決文の中で語っていないが、きっと上のような「対話」のプロセスを通じて「客観的な」判断に導くことができるという立場を理解していたのだと思った。

これは、突き詰めれば、真理はどのようにして獲得されるのかという哲学の認識論の問題に至る。科学の上では、これまで、誰か優秀な人間が仮説を立て、それが実験を通じて証明されることで得られるといわば実体的に考えてきたのに対し、20世紀の量子力学の激烈な論争が明確に示したように、様々な異論、意見との「対話」を通じて、真理が生成されていく、それゆえ真理は常に暫定的であり、仮説的であり、対話を通じて、たえず生成進化していくという生成法的な考え方が次第に有力になってきたと思う(ポパーの「反証可能性」)。つまり、科学におけるポパーの「反証可能性」というのは法律の世界に翻訳すると、生成法のことなんだと分った。
法もまた、科学と同様、様々な異論、意見との「対話」を通じて、価値が生成されていく、それゆえ価値は常に暫定的であり、仮説的であり、対話を通じて、たえず生成進化していくーーこれが生成法の意義、真価である。平井のおかげで、新たな光照らされて、生成法の真価がまたひとつ明らかになった。

【総論3】「対話」の可能性に「法解釈の客観性」を賭けた平井宜雄の法解釈論の偉大さに今ようやく気づいた(26.9.7)

9月1日に、民法学者の平井宜雄の「法解釈論の合理主義的基礎づけ」を読み直し、そこで、彼が「法解釈の客観性」を「合意」の成立ではなく、「対話」のプロセスの成立の中に見出していたことを知り、目からウロコで、驚愕した。 自分がまた新米法律家の第一歩を歩み出した気分だ。 以下、それについ...