2025年2月15日土曜日

【つぶやき4】「ずっと躓きっぱなしだった統計学の原因が判明した気がした 」 (24.10.16)

 この秋に、自分自身の中で判然と分かったことの1つが、
これまで奮闘努力してきたにもかかわらず、ずっと躓きっぱなしだった統計学の躓きの原因が判明したこと
です。それは、養老孟司が「AI支配でヒトは死ぬ」の中で、
「理解」することと「解釈」することの違い
について論じているのを読み、その通りだと思ったからです。
ここで、彼は、この2つの違いについて、
「解釈」するとは、人間の脳が自然世界に働きかけてあれこれ世界を再構成すること、その行き着く先が、AIのように、自然世界を脳化社会に置き換えてしまうこと。これに対し、
「理解」するとは、向こうからやってくるんだ、「分かった!」って。「理解」とは分かろうとして分かるものじゃなくて、いつの間にか、分かっている。いわば、ヒトが自然世界に寄り添い、付き合っているうちに自然と自然の声、ことわりが自然のほうからやってくる。
だから、「解釈」も「理解」も一見、似たような作用、機能のようだけれど、本質的に異質なもの。例えば「解釈」では、整合性が取れていることが重視され、整合性が取れていれば、一応、まともな「解釈」として評価がくだされる。しかし、いくら整合性がとれていようとも、自然(身体)からは「それはちがう!」という異論が飛び出す。これが「理解」のこと。
つまり、「理解」と「解釈」は折り合わない。
       ↑
これは、マルクスがフォイエルバッハのテーゼの中で、
哲学者はこれまで世界を「解釈」してきただけだ。必要なことは、世界を「変革」することである、
を思い出させるのですが、私にとって、マルクスのこのテーゼは次のように理解されます。
哲学者はこれまで世界を脳の中であれこれ「解釈」してきただけだ。必要なことは、世界を「理解」することである、そのために「実践=世界と交わらなければならない」。
       ↑
このように考えたとき、これまで統計学(20世紀の推測統計学)をいくら勉強しても、その時には分かった気になっても時間が経つと、綺麗さっぱり抜けてしまい、ちっとも理解が身に付かない経験を繰り返してきた、その理由が分かったような気がしたのです。
つまり、統計学はこれまで、自然世界からデータを取って、そのデータをあれこれといじくり回して「解釈」してきただけで、自然世界を「理解」してきた訳ではない。しかもその「解釈」は高度の論理的、思考的なテクニックの積み重ねの上に築かれたもので、論理的首尾一貫性に貫かれているものの、それ以上、現実的な裏付け、対応関係が取られているわけではない。
       ↑
いわば、高度の「脳的な論理的整合性」の上に築かれた統計的処理を全身全霊で「分かった!」という理解に達することはあり得ない。それはあくまでも論理という堅固な理屈の石垣の上に築かれた観念上の城にすぎないものだから、そんなものに「理解」「納得」という身体の感情が沸きあがってくるはずがない。
つまり、現代の統計学に「理解」「納得」がいかないのは、決して知能が足りないからではなく、純粋な論理性だけで築かれた世界に対する根本的な違和感に由来するもので、むしろ自然なことであり、むしろ現代の統計学に「理解」「納得」が行くという人は、よほど観念的世界に対する親和性が高い生来の観念論者だからだと思う。そんな人間はヘーゲルとかごく一握りの少数者だ。

そのからみで、昨年2月に、井戸さんの「(疫学(統計学)を理解するためには、疫学の教科書を3回読まなくては」という発言に「それはちょっとちがうんじゃない?」という以下のコメントを書いたことを思い出しました。
その時の私の積極的な見解は、
「疫学(統計学)を理解するためには、疫学(統計学)の肝を掴むことが不可欠だ」
というものでした。しかし、今はそれもまた「ちがうんじゃないか?」と思っています。理由は前述した通りで、そもそもと疫学(統計学)とは世界を「解釈」しただけのもので、自然世界を反映した「理解」を述べたものではないから、そのような観念的世界の構築物をいくら読解しても「理解」「納得」に至ることがないのがむしろ当然、自然だからです。

つまり、現代の統計学は自然世界との対応関係が離れすぎ、頭の脳の中だけで整合性の取れた観念的構築物に作っただけのものに堕している。
そのような脳化世界に対して、自然世界から「分からない!」という違和感が表明されるのはむしろ素直なことだ、と。
      ↑
これに対し、津田さんや濱岡さんがどうリアクションを示すか、興味津々です。
(陳腐な政治的用語を使えば、かつての統計偏重の左翼日和見主義から、今度は統計軽視の右翼日和見主義に転向したと批判されそうです)    

-------- Forwarded Message --------
Subject: [2019maxlaw:3190] つぶやき:なぜ統計学(疫学)が理解できないか?それは科学哲学(帰納法)が理解できていないから。
Date: Wed, 8 Feb 2023 00:56:34 +0900
From: TOshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
 
柳原です。

今日の弁護団会議で、井戸さんから「疫学(統計学)の教科書を3回読まなくては」という言葉が発せられ、それをめぐってひとしきり喋りました。

そのことが妙に引っかかって、これはどうもちがうんじゃないか、つまり3回読んでも理解できないんじゃないか。百回読んでも同じだろう、という気がしてきました。理由は疫学(統計学)が理解できないのは、疫学(統計学)の肝をつかんでいないからで、肝を掴まない限り、いっぱいいろんな情報を仕込んでも、その時はなにか分かった気になるだけで、結局、時間が経つと、元の木阿弥、ボーとするだけ(←かく申す私がそうだからです)。

で、その肝って何か?と考えていて、過去の自分の投稿を読み返して気がついたことは、
疫学(統計学)の肝はエンデの「はてしない物語」の肝と同じではないか、と。
つまり、
エンデの「はてしない物語」の肝は主人公が現実世界とファンタジーの世界とを行き来する物語ですが、これと同様のことを疫学(統計学)でもやっていて、その肝さえ掴めば、疫学(統計学)の物語は自分でもつむぐことができる。

疫学(統計学)の現実世界というのは、調査や実験によって得られた情報(観測地)で、そのデータをもとに度数分布とか平均、偏差値などを求めます。これらの作業はすべて現実世界の中での出来事です。
しかし、疫学(統計学)は或る時点で、この現実世界からファンタジーの世界にワープします。それが「度数分布」から「標本分布」を導き出す時です。ここで、私たちは現実世界からおさらばして、ファンタジーの世界に跳躍するのですが、この跳躍という飛び越えは放射能と同様、「目に見えず、触ることもできず、臭いも痛みもない」ため、ボーとしていると、世界の次元が跳躍したことに気がつかない。その結果、今までと同様、現実世界の中にいるものとばかり思って、その延長線上で思考を継続して行くと、それまでの現実世界に適合した思考方法ではちっとも理解できない未知の思考に出会い、そこで、戸惑い、混乱し、ついに、その未知の思考は自分には理解不可能だと、そこで、疫学(統計学)の学びを断念してしまうか、或いはその時、なにげに分かった気になっていたけれど、時間が経つと、このファンタジーの世界の思考方法が何だったのか、現実世界の思考にどっぷり漬かってしまっている頭では到底理解できないと悟らされます。
これが、疫学(統計学)の学びで躓く最大の理由ではないかと思うのです。

それで、疫学(統計学)におけるファンタジーの世界というのは、定義や公理から論理的な証明によって様々な命題を導き出す数学的世界のことです。具体的にな(古典的ではなく)現代の確率論の世界です。

つまり、疫学(統計学)は現実世界からスタートして「度数分布」などを作成し、そこで経験世界からおさらばして、「確率分布」である「標本分布」の数学的世界にワープします。そこで、確率論の公理(大数の法則や中心極限定理など)を駆使して、仮説検定や区間推定の舞台を引き出します。そうして、最後に再び、現実世界に戻ってきて、現実のデータを仮説検定や区間推定の舞台と照合して、最終的な結論(仮説を棄却するとか95%信頼区間の値とか)を導きます。

以上の序破急という3つの展開を通じて、つまり現実世界→数学的世界へのワープ、再び、数学的世界→現実世界への回帰という跳躍を経て求めるエンディングが得られるというのが、疫学(統計学)のストーリー。
私は、ここの序破急という3つの展開の質的転換のイメージが持てないと、百回、教科書を読んでも、永遠に理解できないんじゃないと思ったんです。

でも、現実世界→数学的世界へのワープって、イギリスの伝統的な思考方法である経験主義(帰納法)と同じやり方で、特別な方法ではありません。
現代の統計学を作ったフィッシャーはイギリス人だから、彼にとって、この思考方法は極めて自然だった。

さらに、実は、法律家はいつも帰納法で仕事をしている連中です。だって、法律家が相手にするのも現実世界の紛争の事実と観念的世界の法規範の両方で、経験世界で発生した紛争という事実を、観念的な世界の法規範に当てはめて、法規範の中であれこれ操作して結論を引き出して、紛争解決とする、現実→観念→現実という序破急という3つの展開を日々やっているからです。ただ、それを自覚せずにやってしまっているために、疫学(統計学)でも同じことをやっているんだと気がつけないでいる、と。

以上、備忘録のためのつぶやきでした。

【つぶやき3】「ずっと偏愛してきた数学が脳化社会の最大の推進者だった」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の中で最もショックだったことは、
数学こそ脳化社会を推進した最大のツールだった
ことを知ったことです。それも養老孟司の指摘でした(しかも2003年の「バカの壁」に書いてあったのに、私の「バカの壁」のせいで理解できなかった)。

私の数学に対する偏愛は、ブルーカラーという自分自身の出自に由来します。貧困からの脱出は学力しかなく、その学力のうち最も確実なのは、証明さえできればどんな考えの人からも受け入れられる数学だと直感したからです。

しかし、その数学の確実性こそが脳化社会を推進する最大の武器になったのだと、養老孟司は言います(以下)。

脳化社会は人々にものごとを了解させようと了解事項を拡大させてきたが、その了解には共通了解と強制了解の2つがある。強制了解は有無を言わせず了解させること。数学は、証明によって強制的に「これが正しい」と認めさせられる論理であり、「強制了解」の典型である。その行き着く先がAI。

AIが世界を覆いつくすということは、意識(論理)の世界が自然の世界と置き換わるということ。その結果、自然(身体)としてのヒトの調子が狂ってくる。ジレンマを抱えたヒトは、最悪の場合、AI(論理)の命ずるままに受け入れるだけで、自らモノを考え、動くことを放棄し、死んだも同然の状態に陥る(養老孟司「AI支配でヒトは死ぬ」)。

この裁判も上に述べた危惧を一層感じるようになりました。東電の100mSv論がその典型ですが、データと統計だけで被ばくと甲状腺がんの因果関係を判断していいんだという発想そのものが、AI(論理)の命ずるままに受け入れるだけで、自然(身体)と向き合い、自らモノを考えることを放棄し、死んだも同然(思考停止)の状態に陥っているからです。

子ども脱被ばく裁判の中で、LNTモデル仮説論争に関する書面を書いたとき、ポパーの「反証可能性」論で反論したのですが、この準備の中で、物理、化学などではこの「反証可能」論が妥当するけれど、ひとり数学だけはこれが通用しないんじゃないかと気がついて、ちょっと焦りました。その時には、数学は論証科学だとすれば、物理などは実験科学であって、両者は別の種類の科学なんだと考えて、「反証可能」論は実験科学のみに妥当すると考えるしかないことに思い当たりました。
つまり、数学は自然世界に関する科学ではなく、論理の世界の科学だということです。この数学の特殊な位置に気がついたとき、もし養老孟司の「脳化社会」論を知っていたら、数学こそ脳化社会の推進者だったことにも気づいたはずでした(当時作成した「科学的な証明」をめぐる整理の表を添付します)。

その自然世界と切り離された論理の世界の数学が侵入して作られたのが現代統計学です。そこでは、数学の確率論が大幅に導入され、古典統計学が一新されたからです。その結果、自然世界と強い対応関係を保っていた古典統計学ではなく、自然世界との対応関係が危うい確率論をベースにした現代統計学が今日のデータ処理の基本になったのです。

なぜ現代統計学が威力を発揮したか。それは論理という手段をフルに活用して結論を引き出せたからで、言い換えれば、自然世界との対応関係が危うい確率論をベースにしたからで、それは反面、現実の自然世界とどれくらい正確に対応しているのか、そこがどんどん危うくなっていく。それを承知で、検討委員会などは自分の都合のいい結論を現代統計学を大義名分にして引き出しています。
我々はそれに対し、単に「それは現代統計学の使い方を間違えている」とだけで反論しては足りないんじゃないか。それが今の問題意識です。

話があちこち飛びましたが、数学に対する見方がコペルニクス的転回を遂げざるを得なかった自分の体験を語りました。

【つぶやき2】続き:「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の世界観が最も変わったことの1つが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)です。これを単なる大げさ、飾り文句ではなく、文字通り、受け取るのが正しいのだと思うようになったことです。、これを指摘した養老孟司は例えば以下のように言っています(昔の本と比べ、いまひとつ切れ味が悪いですが)。

世界の見方
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

ヒトは世界+(自然の世界)から刺激を五感で受け取って、そこから先は世界-(脳化の世界)に入る。まぶしいとか、うるさいとか、暑いとか、硬いとか言う。でも世界+の実体は不明である。カント風に言えば、物自体を知ることはできない

世界+(自然の世界)は真っ暗闇である。そこから少しずつ「事実」を拾ってくる。拾われた事実(情報)がある程度豊かになると、様々な概念が生じ、ヒトは自分なりの世界像を創る。
      ↑
この自然世界は「真っ暗闇」であることを思い知らされたのは、先端科学の「素粒子論」を知った時です。以下の動画を見て、物質の世界の真相は「真っ暗闇」じゃん、我々は本当にその一部分だけ、かすかに知っただけにとどまるじゃん、と実感しました。

神の数式 完全版 第2回「“重さ”はどこから生まれるのか~自発的対称性の破れ」
https://www.dailymotion.com/video/x8md0ne
     ↑
ここに登場するのですが、それまで電子はどれも一様に回転し、磁石のような性質を持っていたことが分かっていた。ところで、1957年に、その回転に右巻きと左巻きと2種類の回転があって、その性質がちがうことが分かった。
     ↑
ここから、電子をどれもみんな同じ構造、同じ動作、同じ性質を持っているなんてどこにも断言できず、電子にも「多様性」があって、それぞれ異なる側面がある可能性のほうがリアルになってきた。
     ↑
かつて、子ども脱被ばく裁判で、ポパーが、科学的真理とは「反証可能性」を前提とした暫定的な真理=仮説にとどまると主張したことを取り上げ、LNTモデルを仮説だとして馬鹿にした国に噛み付いた書面を出しましたが、
https://darkagejapan.blogspot.com/2019/02/blog-post_12.html

これは自然の世界は「真っ暗闇」である、ということを言い換えたものです。人間がこしらえた人工的な世界(科学的知見)がいつも自然界の一部を照らす部分的な真理でしかなく、自然界の全体からはいつもこれと矛盾する事態が起きるからです。
例えば、放射能でもα線、β線、γ線の被ばくを被ばく線量で評価しますが、果して、電子でも右巻きと左巻きの異なるものがあるように、同じβ線でも、右巻きと左巻きの異なるものがあるかもしれないし、それ以外にも、異なる構造、異なる動作、異なる性質を持っているかもしれない。単に、我々の認識能力不足で、それらのちがいを見出せずにいる可能性が大きい。その結果、それらの違いが、同じ被ばくをしても、相手の人体への影響が異なってくる可能性が当然あります。それを単純に、被ばく線量だけで健康評価しているのは、ものすごい荒っぽい、雑な見方ではないかと思えるのです。

そもそも、一口に放射線といっても、α線は陽子2個と中性子2個からなるヘリウム原子核なのに対し、β線は原子核から飛び出した電子でしょう。さらに、γ線は原子核から発生する電磁波と言われます。どうして、こんなに構造も性質も異なるものが放射線としてひとつに括られるのか、それが不思議でなりません。それは、放射能をα線、β線、γ線として外形的、表面的にしか把握しておらず、これらの3つに共通する本質(電子を吹き飛ばす電離作用)に即して放射能をまだ捉えてないんだと、放射線科学の未完成ぶり、未熟さを痛感するのです。

それは、長い間、あれだけ内部被ばくの危険性を認識していながら、いまだに、その危険性にふさわしい定量化の表現つまり内部被ばくの単位を見つけていないことにも、放射線科学の未完成ぶり、未熟さを痛感するのです。

それらの放射線科学の未完成ぶり、未熟さのため、「被ばくの健康影響」に対する認識能力も極めて未熟にとどまっていると痛感せざるを得ません。

数年前に、因果関係の科学的解明のツールとして統計学にその可能性を期待し、取り組みましたが、まだ探求途上とはいえ、この間の検討で感じたことは、どんなにテクニカルな現代統計学を使っても、それで解明できるのはあくまでもデータ同士の「相関関係」にとどまることで(原因確率論もみんなそうです)、それ以上「因果関係」に踏み込むことはできない。科学として、「因果関係」の手前でとどまるのが統計学の本質的宿命(限界)だということです。
     ↑
その意味で、科学として「因果関係」に寄与できることは限られている。そこで、法的に「因果関係」を問うときに重要になるのが、「真っ暗闇」に見える自然世界の中に厳然として存在する「事実」です。それが病態論。というより、そのような視点で病態論を再発見する必要がある。
そういう目で意識(科学的知見)と自然(病態論)の関係を捉え直したとき、はからずも、原爆症認定訴訟の中で、過去の判例が原因確率論のような科学的知見を決め手とせずに、それに加えて病態論をも加味して、総合的に、法的な因果関係を判断してきたことに、改めて、深い智慧を見るような発見がありました。

この意味で、私は、この裁判が始まった最初の夏合宿でやった原爆症認定訴訟の因果関係論に、深い洞察力が込められていることに驚嘆している次第です(まだ、ちゃんと復習していないのですが)。

まとまりのない駄文で、失礼しました。

【つぶやき1】「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」 (24.10.16)

 この夏、自分自身の世界観が最も変わったことの1つが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)です。そう指摘したのは養老孟司です。

その結果、被ばくと甲状腺がん発症の「(事実的な)因果関係」もまた、脳化社会の外側にある自然世界の出来事であり、それは我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識です。
これに対し、これまで自分なりに、脳化社会の構成要素である言葉・数字・データ・論理(統計学)を使って自然世界の出来事である「(事実的な)因果関係」を解明しようとしてきましたが、そこで「科学的知見である統計学を正しく駆使すれば、(事実的な)因果関係も解明可能であるという信念(正確には信仰)でやってきましたが、しかし、そこには根本的な思い違いがあり、それは言葉・数字・データ・論理(統計学)は「真っ暗闇」をかすかに照らす手がかりにとどまる、という認識の見直しです。

なぜ、この見直しが必要かというと、現代社会は脳化が暴走し、脳化社会を構成する要素である意識(言葉・数字・データ・論理)でもって、自然世界を置き換えていいんだというところまで考えるようになり、意識(言葉・数字・データ・論理)が自然世界(現実)に置き換わってしまった。
その結果、言葉・数字・データ・論理でもって整合性をもった説明さえできればそれを現実とみなしてよい、と思い込むようになった。
その結果、現実は言葉・数字・データ・論理によってどんどん貧しくなり、どんどんやせ細っていき、言葉・数字・データ・論理だけのAI的な世界になっていった。「セクハラ」といった決めセリフや呪いの言葉の応酬が日常化した。
     ↑
これに最も反発、反逆、反動したのが自然としてのヒトの身体です。
私には、311の数年後、3歳で東京から長野県松川町に移住した孫がいるんですが、彼は小1からバリバリの不登校児で、お昼に給食だけ食べに行くという動物的な孫を見ていて、彼が引きこもりなのはギスギスした息苦しい脳化社会に対する身体の素直な反応で、むしろまっとうなんじゃないかと思うようになりました。
この「脳化社会に猛反発、反逆、反動する身体」の深刻な現象については自死、鬱、いじめ、引きこもり、様々な「‥‥ハラ」現象から、腰痛、アトピー、不眠など様々な健康障害まで、今日の至る所に蜘蛛の巣のように切れ目なく発生していて、いわゆる生命、身体、健康に対する最大の加害者は、一握りの悪徳業者とかではなく、我々が築いた脳化社会自体だと断言していいんだと思うようになりました。

そこからどうこの脳化社会の暴走に立ち向かうのか、という課題が私にとって最大のテーマになっています。それは過去最大級の途方もない、大きなテーマで、一瞬、気が遠くなるのですが、他方で、以下に書きました、病態論の位置づけの再構成というふうに、現実の問題である甲状腺がん裁判そのものの取り組みにももろ影響する課題です。

なので、そのためにも、もう一度、
脳化社会の外側にある自然世界は我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識について、
リアルな実感を抱くようになったいきさつについて、長くなったので、別便で書きます。

【つぶやき9】追出し裁判、最高裁に上告受理申立ての3通目の補充書を提出:規範が事前の規範と事後の規範の2方面に作用するのに着目し、住まいの権利裁判の先日の成果を追出し裁判に活用(25.11.19)

                               追出し裁判、最高裁に 補充書(2) を提出(11月17日) 1、概要  住まいの権利裁判の前々回の9月1日から前回の11月12日までの2ヶ月余りの間、仮設住宅提供の打ち切りを決めた内掘県知事決定の裁量権の逸脱濫用の適否...